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益田太郎
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石見益田の風土の魅力を痛感。地元益田市の地味美学の追及をライフワークとする民(間)俗学者
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2009年12月27日

益田越中守兼堯の像の視線を追う(益田市七尾町)

今回は久しぶりに益田市の話題。益田市の偉人・有名人として益田兼堯(ますだ かねたか)に関する話題。

益田兼堯(ますだ かねたか)といえば雪舟による益田兼堯像が有名です。(以前も取り上げましたが)この雪舟筆 「益田兼堯像」は益田市の市立 雪舟の郷記念館に収蔵されているということですが、なぜか、なかなかタイミングが合わず未だに鑑賞することができていませんicon102

そんな益田市太郎の愚痴face03をある人に伝えたら

「銅像ならいつでも見れるぞ!」

ということで場所を聞いてicon17早速見に行ってきました。

場所は益田市七尾町の妙義寺の(道をはさんだ)正面におられました。








この像…自信ありげな表情に頼りがいを感じませんか?

益田兼堯さんはどこを見つめ何を思っておられるのでしょうか…

台座には益田越中守兼堯公像と



(この文字はかつての衆議院議長 桜内義雄氏によるものです)

越中守とはどのような役職?名なのでしょうか…結構調べたんですが未だに解明できていません。

横には益田兼堯に関する益田市観光協会による説明文があります。内容はよさそうなのですが…


黒御影で読むのにマジ疲れるface07ので得意の(笑)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用させていただきました。

益田 兼堯(ますだ かねたか、? - 文明17年(1485年))。は、室町時代後期の人物。石見の国人領主益田氏当主で第15代益田城城主。益田兼理の子。益田常兼の弟。益田貞兼、女子(陶弘護妻)の父。越中守。

永享3年(1431年)、父と兄が大内盛見に従い九州の少弐氏、大友氏と戦い、盛見と共に戦死したため家督を継いだ。以来、益田氏の当主を長期にわたって務め、大内氏のみならず幕府とも直接、誼を通じ、それぞれの戦いで着実に戦功を積み勢力を拡大させた。応仁の乱の際は大内氏に従い西軍に属し、文明2年(1470年) 大内教幸(道頓)の反乱の際には、女婿の弘護を支援し石見の有力国人の吉見信頼らを制圧した。その一方で、東軍の細川氏とも通じていたとされる。晩年は子の貞兼に家督を譲って隠居した。

雪舟と親交があったと伝えられており、彼が描いた兼堯像は国の重要文化財に指定されている。
【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用】




この『ウィキペディア(Wikipedia)』の内容だけでも益田氏や益田 兼堯(ますだ かねたか)には随分興味がそそられるものがありますねface17

MAP:益田越中守兼堯公像のある場所(益田市七尾町)】

※マップトラバもしておきます。

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この記事へのコメント
この種の「官職」についての詳細が書かれているサイトがあります。

羽柴(筑前守)秀吉などの「〇〇守」の意味


確か、亀井さんは「隠岐守」でしたが、これは単なる名誉称号ですね。
秀吉のころには「琉球守」をもらっていたようです。これは単なる名誉称号ではなく、マジで沖縄進出を願っていたようです。
Posted by 石見ふるさと応援団 at 2009年12月27日 09:52
石見ふるさと応援団様

コメントありがとうございます。

また貴重な情報ありがとうございました。

ベンキョーになりました。

今後ともよろしくお願いしマスダ!
Posted by 益田太郎益田太郎 at 2009年12月28日 19:28