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益田太郎
25年ぶり故郷島根の益田市
石見益田の風土の魅力を痛感。地元益田市の地味美学の追及をライフワークとする民(間)俗学者
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2009年11月29日

扇原関門跡 浜田藩と津和野藩の標柱の発見(益田市誌より)

岸静江国治、扇原関門跡について調べてみると、この益田市周辺の近代史にもいろいろと興味深い出来事や人物の存在があることがわかりましたface17

今日は、ちょっと軽い話題を…

以前、私が初めて扇原関門跡を訪ねた際、幕末の古戦場の雰囲気を感じた!的にとりあげた
【関連投稿】
>>扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)
↑このページの下の方に標柱の画像と、それを見たときの(私の)感想があります。
(今から思へば笑へますface20

では!
地政学的に見て面白い位置に存在する益田市の歴史的資料ともいえる「標」2つに関する発見!です。
(かなりトリビアな話題ですface20

「浜田(濱田)藩の領界を示す標柱」と「津和野藩の領界を示す標柱」



扇原関門跡(益田市多田町)にて撮影
※2つの標柱の画像を編集(連結)しています。実際は街道跡をはさんでほぼ向かい合っています。

実は、この2本の標柱、それぞれ(一時的に)益田市の民家(たぶんお屋敷)の庭にしばらくおかれていたようです。





※ちなみに津和野藩の標柱の文字はかなりの達筆だと思います(カッコイイ!face19感涙)
【画像出処:益田市誌 下巻 P209】
益田市誌(上・下巻)
昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市



最初に扇原関門跡でこの2つの標柱をみたとき、
「このような歴史的に貴重なものが、よくもまぁ、ありのまま残っていたもんだ!」と思いましたが、良く考えてみればわかるのですがface17…もし、ここ益田市多田町の扇原関門跡で、昔からずっとこの「浜田(濱田)藩の領界を示す標柱」と「津和野藩の領界を示す標柱」が残存し続けている方が歴史的に変なわけです。
(政権交代のすえ、廃藩置県となり浜田藩も津和野藩もなくなったわけですからネ!)



ちなみに今回浜田藩について調べることがあったのですが、その際、上野国(群馬県)生まれの岸静江国治がそもそもここ石見の地(現在の益田市の)扇原関門に赴任することになった経緯…松平(まつだいら)〔越智(おち)〕家についての資料がありましたので引用しておきます。

松平(まつだいら)〔越智(おち)〕家 1836年~1866年
上野国館林藩より第6代将軍・徳川家宣の弟・越智清武を祖とする松平(越智)斉厚が6万1000石で入封した。第15代将軍・慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った第4代藩主・武聰は、慶応2年(1866年)、第二次長州征伐のとき、浜田口を担当し、長州藩側の大村益次郎が指揮する軍に悉く撃破された。浜田の街に長州軍が入ったときには、武聰は戦わずして浜田城を放棄して松江城に逃れた。その後、武聰は美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えた。この際に、浜田の街は焼き払われ浜田城も同時に灰燼に帰した。その後、浜田は長州藩の占領下となり廃藩となる。

明治2年(1869年)、版籍奉還により隣接して同じく長州藩の占領下にあった天領・石見銀山領とともに大森県となり、さらに明治4年(1871年)、県庁が浜田へ移転され浜田県となった後、島根県に編入された。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)太字強調は益田市太郎による

美作国(みまさかのくに)は現在の岡山県美作市にあたるそうです。美作国宮本村っていえば…「宮本武蔵」の出身地とも言われている場所ですね(あくまで伝承ですが)。尚、鶴田は「たずた」と読むそうです。


ところで、島根県の浜田市って最近の駅前商店街とかは、益田市より寂しい雰囲気なんですが、昔は凄かったんですね!いろいろとface18  

Posted by 益田太郎 at 13:55Comments(2)TrackBack(0)岸静江国治と益田市

2009年11月27日

扇原関門と岸静江国治の最後 吉田軍人会による記述

先日お約束しました「昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑の碑文…岸静江国治の戦死の姿態(諸説あるうちの一つとして)に関する記述が掲載されています。」
を引用しておきます。

「徳川幕府ノ末期、天下挙ッテ騒然タルノ時、岸静江源国治、浜田藩ノ命ニ依リ、我ガ扇原関門ヲ預リ往ス。斯テ長州再征ノ役起ルヤ、時ハ慶応弐年六月十六日、幕軍ノ西下ニテ先チ、長軍ノ一隊、東進スベク来襲シテ開門ヲ請フ。然ルニ靜江、只管命ノ重キヲ奉ジ、頑トシテ之ヲ肯ゼズ。而モ敵ハ、奇兵ノ大勢ナリ。爰ニ於テ、既ニ意ヲ決シタル靜江ハ、先ズ猟銃ヲ携ヘ、加勢ニ集エル付近ノ農民ニハ、旨ヲ諭シ退散ヲ命ジ置キ、挺身武装ヲ固メ、以テ防戦ニ之レ力ム。サレド奈何セン、剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ衆寡適セズ、切歯シテ悲愴ナル、最後ヲ遂グ。乃チ飛弾満身、既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。為ニ敵兵ヲシテ、大ニ之ヲ訝ラシメ、暫シ進軍ヲ躊躇セシム。其層壮烈人咸感嘆セザルナシ。亨年三十一歳。 昭和八年四月二十五日、靖国神社ニ合祀。」

益田市誌(下巻)P213~214より引用
昭和五十三年六月三十日 発行 編纂者 益田市誌編纂委員会 発行者 益田市

「既ニ意ヲ決シタル靜江ハ、先ズ猟銃ヲ携ヘ、加勢ニ集エル付近ノ農民ニハ、旨ヲ諭シ退散ヲ命ジ置キ、挺身武装ヲ固メ、以テ防戦ニ之レ力ム。」face19何度読んでも壮絶なシーンです…face19



「命を投げ出す覚悟」
まさに公に務める意識の「塊」だと思いませんか!?

剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ…岸静江国治は「十字長槍」の達人だったんですね!十字長槍といえばバカボンドの胤舜(いんしゅん)の宝蔵院流十字槍を彷彿させますが
(胤舜のは「十文字鎌槍」なんでちょっと違うか…どんな槍だったのでしょうか?)

既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。…そうです!この話が、かつて、益田市で「花神」で盛り上がっていた頃に、学校の先生から聞いた話でした。(岸静江国治の最後は他にも色々な説があるそうです)

また益田市誌(下巻)P214には「関址に建てられた静江の碑」として、

扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)で掲載した「岸静江 戦死之地」の碑の画像(モノクロ)がありました。

これは先日現地で撮ってきたもの…



この碑の文字を書いた方の名前があることに気が付きましたface08

陸軍中将 野島忠孝 書とあります。
軍人データベース 『サクラタロウ DB (Purunus DB)』によると、

野島 忠孝(のじま ちゅうこう)
官位 : 陸軍中将
主な補職 : 歩兵第10旅団長
兵科 : 歩兵
学校 :士官生徒8 陸大8
出身地 : 島根県
生歿年 : 元治1年9月6日 - 昭和19年3月13日
野島忠孝陸軍中将とはどんな方なのか?調べてみたのですがあまり詳しくはわかりませんでした。ただ、野島忠孝陸軍中将の「像」は島根県の浜田市にあると思われます。(詳しい場所は不明)


「岸静江国治」に関する特集記事。
>>岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)
>>扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)
>>岸静江国治外伝 矢風奥録(益田市某所)
>>発見!扇原関門跡 明治時代のモノクロ写真  

Posted by 益田太郎 at 23:14Comments(2)TrackBack(0)岸静江国治と益田市

2009年11月25日

発見!扇原関門跡 明治時代のモノクロ写真

今月の初め頃、「益田市の偉人有名人」で特集していました岸静江国治(きし しずえ くにはる)。
あれで終わり?と思った方もいるかもしれませんが、益田市太郎、地味に、じゃなかった地道に情報収集していました。

2009年11月に突如として特集開始した益田市の歴史上の人物「岸静江国治」に関する特集記事は以下の3つ。
>>岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)
>>扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)
>>岸静江国治外伝 矢風奥録(益田市某所)
まずは益田市の現在の扇原関門跡の様子


(多田方面から撮影)木が繁って全体的に薄暗い感じです。

そして、これが明治時代に撮影された扇原関門跡(扇原関址)の画像です。


おそらく左ヶ山方向からの撮影かと思います…
(この画像の出処は明治43年5月15日の石見実業時報だそうです)

随分、雰囲気が違いますネ。大きな松の木があったようです。この(明治時代の)画像なら「ここに関門(関所)があった」ということもわかるような気がしませんか!?face17

(画像左下の白くみえるものが岸静江国治の墓だそうです。これは現在ここに設置されている「岸静江 戦死之地」の石碑とは違うものですネ。)

今回の「発見!明治時代の扇原関門跡の画像」での貴重な情報のリソース(情報源)は益田市誌
(益田市誌は益田市の歴史・民俗・地理学等を網羅しているという意味で益田市の至宝と(私が勝手に)思っとります。)
益田市誌(上・下巻)
昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市


その下巻「政治篇」(P205~)「第一章 明治維新」
第一節 長州征伐と石見地方
扇原関門と岸静江(下巻P213~P214)で発見しました。

ここでは他に貴重な情報として

昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑の碑文…岸静江国治の戦死の姿態(諸説あるうちの一つとして)に関する記述が掲載されています。(内容については、いつか引用、投稿しますね)

(また、私が初めて知ったことなんですが…)
益田戦争における戦死者に関する記述(「征長の役の戦死者」同上P214)もありました。

その中に特筆すべきことがありましたface08

長州藩の戦死者の中に乃木三蔵という方がおられたそうです。この方はあの乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将の従兄弟にあたるということなんです。

そして、乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将が第三軍司令官として旅順攻撃を指揮した翌々年の明治三十九年には(乃木大将)御自ら益田市の妙義寺山内の従兄弟の三蔵氏の墓を詣でた…つまり、かつて、この益田市の地に乃木希典大将がface08…というわけです。

なんだか、また益田市の歴史で凄いことを知ってしまったので皆さんにもシェアしときマスダわけですface17


(…で、ふと思ったのじゃが、長州軍がここ扇原関門で岸静江国治と戦い、制圧したにもかかわらず一度横田に戻ったのはここでの乃木三蔵という方の戦死とも関係があるのではなかろうか…なんせこの戦いの数年後、明治4年(1871年) には陸軍少佐になる乃木希典の従兄弟であるから…)

上記仮説に関する訂正却下
後日、乃木三蔵が戦死したのは1886年6月17日ということがわかりました。扇原関門跡での戦い(最初の武力衝突=岸静江国治の戦死は1886年6月16日)はその1日前となります。乃木三蔵の戦死は翌日17日益田市の萬福寺(益田市東町25-33)での戦闘によるものということでした。(記:2009年12月4日)



【MAP:扇原関門跡(益田市多田町)…位置はおおよそです】
多田温泉わきの農道を登って行くと、岸静江国治の墓があり、道をはさんだ向い側に「扇原関門跡への案内板」があります)

マップトラバも大体同じ位置にしておきます。  

Posted by 益田太郎 at 22:26Comments(6)TrackBack(0)岸静江国治と益田市

2009年11月24日

「やすらぎの森・宇生」で発見!幻の大松林(萩市 江崎 宇生)

先日、益田市のすぐお隣、山口県萩市の江崎の宇生(うぶ)にある「やすらぎの森・宇生」での出来事を取り上げました。
そうです!萩市 須佐町の沖にある四ツ瀬のはるか先に「見島」が見えたということでしたネ!
>>見島が見えた!「やすらぎの森・宇生」(萩市 江崎 宇生)
その後、江崎の宇生から「見島」が見えるんだったら…

「島根県の益田市からも見えるんじゃなかろうか!?」

という疑問に…コメントにてお応えを頂きました。結論からいって「益田市からも見島が見える!」そうですface08
★見島画像FROM益田市をいつかきっと投稿しますネ!

さて今日は先日の投稿で伝えきれなかったこと…「やすらぎの森・宇生」で見つけた大松林です。

益田市周辺の海岸では以前は、本当に大規模な松林があったのですが、いまは例の「松枯れ」によって枯れ松と赤茶けた松が多くなり…見ていると寂しくなるような…末林となっています。この「松枯れ」の現象はなにも益田市だけではなく津和野町、清流高津川流域の吉賀町でも同様の被害が確認できます。

そして、お隣の山口県の萩市でも(国道191号線沿いでは)「松枯れ」の状況は同じく酷いものです。

もう以前のような元気な松林はこの世(あっ言いすぎましたface20)「山陰地方」に存在しないのだろう…」と最近は諦めていたのですが…

実は!先日発見しました!元気な松林を!しかも大松林です(益田市太郎の尺度ですけどface20

早速公開します!これです!(上の画像と下の画像はひと続きです)






この松林は、萩市の江崎と益田市の飯浦(いいのうら)との境にあたるところと思われます。下の画像の左側の海に向かったところに大きな岩が確認できると思いますが…おそらく鈩崎(もしくは)その先の三生島に当たると思います。

【MAP:宇生の大松林と鈩崎(益田市の飯浦町と萩市の江崎町)および三生島周辺がわかる地図】


これだけの大規模で松枯れが見られない松林…今や山陰地方では珍しいと思いマスダ。

また、「やすらぎの森・宇生」は「鳥獣保護区」…今や珍しい?鳥も沢山いるようですネ。




これだけの自然が保たれている理由は…と不思議に思ったのですが。この林道を走っていて須佐方面に向いたときにわかりました。



須佐の高山の頂上付近に睨みをきかせた姿と左上方には輝き照らす姿が…仲良く…豪華ですface19(感涙)  

2009年11月23日

長沢トンネルで日本初を見た(益田市長沢町)

前回ご紹介した長沢トンネル
益田市の横田町から匹見につながる国道488号線。現在長沢バイパス工事の前半部として平成21年11月2日に開通しました。

長沢トンネルの入り口、トンネル歴板等の画像はコチラ
>>長沢トンネル開通で短くなった匹見町への道のり(益田市長沢町)
で、新しい物好きの私、益田市太郎は早速この長沢トンネルを走破してきたのですが…

実はこの長沢トンネルの中を走っているとなんとなく普通のトンネルと違う感じが!?face17




しました。気になったので(例によって)調べてみました。

長沢トンネル 工法」で検索したところ鴻池組さんの公式サイト内で以下のページを発見しました。
>>トンネル覆工コンクリートの養生技術 温度制御噴霧式覆工コンクリート湿潤養生工法 K-tics
温度制御噴霧式覆工コンクリート湿潤養生工法 K-tics…どうやら、国内初の新技術が採用されたようです!

さらに、もうひとつ(同じく鴻池組さんのサイト)で以下のページを発見しました!
>>長沢1号トンネル 山岳トンネルにおける新しい技術の導入というキーワード ズバリ!のページを発見しましたface17

なんと!益田市のこの長沢1号トンネルには、
温度制御噴霧式覆工コンクリート湿潤養生工法
トンネル地山評価システム
2つの日本初の技術が導入されているとのこと…どうりでネ…そんな感じがしたっすface17
温度制御噴霧式覆工コンクリート湿潤養生工法(K-tics)、トンネル地山評価システムともに
まさに、今後の山岳トンネル工事にどんどん採用されるべきノウハウですね。
(詳しくは上記リンク先(鴻池組さんのサイト内)を参照してください。)

鴻池組さんに限らず
大手ゼネコンさんの「新工法」とか「新システム」には「ナルホド!」って感動させられることが多いですface17

長沢トンネル歴板にもそのコト記述しておけば良かったのに…ね


ところで、この長沢トンネルの歴板の日付(年月)2009年3月となっています。これって一体どのタイミングの年月なんでしょうか?島根県の道路開通情報(益田)によると開通は2009年…平成21年11月2日となっています。事業着手は平成16年度。(1号)トンネル掘削開始は平成19年3月。貫通は平成20年7月です…長沢トンネルにとって2009年3月とはどんな意味があるのでしょうか?

※長沢バイパス工事の当初作成されたと思われるサイトでは「(仮称)長沢1号トンネル」となっていました。
で結局「このトンネルの正式名は何?」と感じたのですが、
トンネル銘板をみると「長沢トンネル」となっていて「1号」という表記は特にありませんでした。



新聞社の記述も「長沢トンネル」となっていたので…「じゃぁ、2号は…?」ってことが新たに気になり始めました。

【MAP:長沢トンネル】
今回は長沢トンネルの匹見側からの入口に(中心点)を設置しました。

マップトラバも同地点に設定しました。  

2009年11月21日

長沢トンネル開通で短くなった匹見町への道のり(益田市長沢町)

益田市の横田町から(益田市)匹見町へむかう国道488号線。

清流匹見川の大自然を満喫できるんで益田市太郎のお気に入りのルートの一つです。

ただし、この国道488号線。はじめてのドライブには結構シビアな箇所が場所が多い。
(まぁだからこそ極上の風景が楽しめるわけですが…)

実は、現在、この国道488号線で「長沢バイパス工事」というのが進められており、そのうち今月のはじめにまずは前半部分の「長沢トンネル(長沢第1トンネル)」が開通(平成21年11月2日)したそうです。これで益田市市街地から匹見町へ道のりが短くなりましたface02
ちなみに、「長沢バイパスの開通により延長が3.6km減少し、通過時間が約10分短縮される」といいます。(島根県 トップ>益田県土整備事務所>道路建設 国道488号 長沢バイパスより…本ページの下の方に「テキストリンク」しています。)
…私的には、(長沢1号トンネルを実際に利用してみて)もっと短縮できるような気がしましたが…気分的なもんでしょうか?

さて、この嬉しい知らせに(ちょっと遅くなったのですが)先日見てきました!「長沢トンネル」

これが「長沢トンネル」の入口(益田市横田町側)



…まさに「できたて」の白さface17

【MAP:長沢トンネルの入口(益田市横田町側)地点】
(地図の中心点が上の画像、下の画像地点を目印(「家」のマーク)にしてみました。匹見川沿いの既存の国道488号線のルートは狭くて見通しが悪いところが多かったですよネface20

これが匹見町側からみた入口



そしてこれが長沢トンネル歴板


…ピカピカicon99です!なぜか2009年3月となっていますface06

【長沢バイパス工事後半部について】
今後は長沢第2トンネルが計画されているようで…(おそらく)この山(左側)を貫くんでしょうネ!



ちなみに、長沢トンネルを抜け、匹見方面に向かう国道488号線の画像(乗用車、見えますか?)



どんな(厳しい)場所をはしっているか…伝わりましたでしょうか!?
(ていうか…自分で撮った画像を見て気づいたのですが、)
ここらあたりの匹見川って、両岸が重厚な岩場なんですネ!岩(場)の中を流れているって感じです。

【長沢トンネルの数字を知る!】
延長:1038メートル
幅:8.50メートル(2車線)
高さ:4.70メートル

平成18年度より着手しているという「国道488号長沢バイパス工事」
実は今回の長沢トンネルはこのバイパス工事のおよそ半分にあたるそうです。

島根県の公式サイトでの島根県 トップ>益田県土整備事務所>道路建設 国道488号 長沢バイパス によると
事業概要
計画区間     益田市長沢町~益田市匹見町澄川
計画延長     L=3.2km
計画車線数   2車線
主要構造物   トンネル:2本 (1号 L=1,038m 、 2号 L=約1,260m)
          橋梁:4橋 (本線橋 2橋 、 現道付替橋 2橋)
事業期間    平成16年度~平成25年度
全体事業費   約70億円


※次回は、この「長沢トンネル」の内部について特集します!(予定です)

【国道488号線について】
国道488号線は起点を島根県益田市の横田町 (国道9号交点)とし匹見町につながっています。そして広島県廿日市市の上平良交差点 (国道2号交点)まで)の総延長109.7km。
かつて、(ナビにしたがって)広島県廿日市市吉和から匹見にぬけようとしてエライめにあった(大雨かつ道幅酷セマ)ことを私は今でも鮮明に覚えておりマスダ!

※マップトラックバックは長沢第1トンネルの益田市横田町側入口に設定しておきました。  

2009年11月17日

第2回萩・石見空港マラソン全国大会の結果を見て思ったこと

先月10月18日に益田市で実施された、第2回萩・石見空港マラソン全国大会。このブログでも何回かに分けて2回目になる萩石見空港マラソンのスナップ投稿しましたよ(ページ下の方にまとめておきます)。

で、その後(益田市太郎、個人的に)気になっていたのが、この萩石見空港マラソンの「結果」と「タイム(記録)」

(第2回萩・石見空港マラソン全国大会の翌日、には結果や記録が益田市のどっかのサイトで、いち早い記録発表がされているのではないかと思って、
「第2回萩・石見空港マラソン全国大会 結果」とか「第2回萩・石見空港マラソン全国大会 順位・記録」とかでいろいろ検索してみたのじゃが…ワシの力量では探し出すことができんかったface20
で、その後2、3日たったら、ワシの(大衆心理の僕としての)使命はどっかに消えた…つまり忘れてしまったface02

で、今日、11月の半ばとなりやっとここで発見(?)しました。(多分探している人もいると思うんでリンクしておきます)
コチラ>>http://www.airport-marathon.jp/です!!
(2009 萩・石見空港マラソン全国大会実行委員会のサイト)

※お昼頃には第2回萩・石見空港マラソン全国大会 順位 タイムとか第2回萩・石見空港マラソン全国大会 順位 結果とgoogleさんで検索すれば知りたい情報にたどり着けやすくなるでしょう(笑))

【第2回萩・石見空港マラソン全国大会の結果を見て思ったこと】
第2回結果速報はこちら(全種目PDF)
PDFA4全54ページの大ボリューム!…「第2回萩・石見空港マラソン全国大会Result 競技結果」
(でも参加者には嬉しい結果発表の仕方じゃろうナ…順位が全員分もれなくでています。好感!)

※Tips!!ゼッケンナンバーで素早く(自分の)順位を探せるよ!
【やり方】
PDF画面上のツールバーの「検索窓」にご自分のゼッケンNoを入力→「完全一致」に指定し→キーボードのエンターキーを押すと、素早く(ご自身の)成績(順位)が見つかりますface17(あと姓名でも同じ流れで検索できるよ、いろいろやってみてネ)

第2回萩・石見空港マラソン全国大会Result 競技結果」が上記サイトでアップされたのはいつかはわかりませんが、このPDFに関しては10月21日には全部まとめられてたようです…これを「速報」「いち早い記録発表」というかどうかは後世の歴史家の判断にゆだねるとして(笑)
…個人的に知りたかったコトがわかって(やっと)スッキリしました(感謝!)

なんじゃ、この投稿は「そいうこと、つまりWebアクセシビリティ」のことを言いたいがためのものなんか!と思われたくないので…
以下、素直にいつもの調子で、ちょっとカワイらしく(笑)
【第2回萩・石見空港マラソン全国大会の結果を見て思ったことicon91

今回、ワシ益田市太郎は益田市の「益田市営競馬場」付近を観戦の拠点としておったのじゃが…結果として気になっとったのが、
この大会、とりわけ、日本陸連公認コースのハーフマラソンの結果。
さらに、個人的に知りたかったんは…
この方!男子ハーフマラソンの部 35歳~50歳未満でのゼッケン542のランナー!



で、「第2回萩・石見空港マラソン全国大会Result 競技結果」早速調べてみました。
やはりこの方が優勝!第一位icon98でした!素晴らしいface17
タイムは1時間12分36秒…広島の方だったんだぁ!

なんとface08!男子ハーフマラソンの部 35歳未満の部よりも早い!
(ちなみに35歳未満の1位のタイムは1時間13分15秒)

アラフォーのワシはこのゼッケン542のお方の走る姿(筋肉)とタイムに勇気をもらったぞface19感涙!

【第2回萩・石見空港マラソン全国大会関連投稿】
>>第2回萩・石見空港マラソン全国大会で有森裕子さんを見た!…有森裕子さん!一流の人(結果を出した人)はみるだけでも元気がもらえます!
>>「萩・石見空港マラソン全国大会」スナップ(その1)です!!…第2回萩石見空港マラソン本大会前半のハイライトシーン(画像)を掲載しています。
>>第2回萩・石見空港マラソン全国大会【その2】&アン☆ドゥ優勝したゼッケン544の方の筋肉美、美人美脚姉妹アン☆ドゥ(アンドゥ)…ジャンルは違いますが美しいものには感動させる力があります。

今回は、第2回萩・石見空港マラソン全国大会のスタート地点でありゴール…つまりメイン会場である益田市の萩石見空港(のタキシングウェイ上)にマップトラバしておきます。

(さァ~てと、仕事にもどるべ…face20)  

Posted by 益田太郎 at 02:28Comments(14)TrackBack(0)益田市の明るい話題

2009年11月15日

見島が見えた!「やすらぎの森・宇生」(萩市 江崎 宇生)

益田市のすぐお隣、萩市の江崎(えさき)には「やすらぎの森・宇生(うぶ)」という場所があります。
(最近やっと場所がわかったのですが…)

「やすらぎの森・宇生」ではいろいろ見どころがありました。益田市から車で20~30分程度で行ける場所です。
(今後ぼちぼちご紹介しますface17

初回にご案内したいのは「やすらぎの森・宇生」からみた海岸の風景
山陰地方の海岸、特に山口県の萩市には、素晴らしい景観が多いようです。

おススメの景観はコレ!



あまりいい画像ではありませんでした…現場は(当然)もっといい風景ですface20
須佐の高山、高山岬の沖の山島、四ツ瀬が見えます。
【参考MAP:須佐の高山岬、山島、四ツ瀬の位置関係がわかる地図】

【見島が見えたface08
で、この日は…なんとface08
四ツ瀬のさらに向こうに「島」らしきものが見えるではないですか!しかもデカイ!




(試しにPNG画像)



はいっ、そうです!この島、「見島」です!
場所:北緯34度45分 東経131度09分
面積 7.73平方キロメートル
海岸線長 24.3キロメートル
最高標高 181メートル
【MAP:今回の撮影地点(「やすらぎの森・宇生」)と見島の位置関係がわかる地図face02


見島(みしま)は、山口県萩市に属する島。山口県の最北端に位置しており、萩市沖北北西約45キロメートルの日本海上にある。萩市には7つの島があるが相島、大島、櫃島と並び、現在も人が住んでいる島である。見島はそれらの中で最も遠い位置にある。また北長門海岸国定公園にも含まれている。

古くから大陸との交易で栄え、約1000年の歴史がある。現在人口約1060人。

かつては一島で村(見島村)を構成していた。郡区町村編制法公布時には独立した見島郡(みしまぐん)に属する村であったが、明治29年(1896年)4月1日に見島郡が阿武郡に編入され、昭和30年3月1日の合併により萩市見島となって現在に至る。
(『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


「四ツ瀬&見島」という風景
日頃から行いのいい人には高山でたまに海を眺めているのスサノウさんがプレゼントしてくれるそうです。
ちなみに、見島…萩市の江崎からこんな感じでみれるのなら、

もしかしたら益田市からも「見島」見えるのではicon108…いやきっと見れるよネicon75(人形峠とかなら)
…こりゃ益田市太郎好みのいいテーマじゃ。いつか益田市から見えた見島の画像を投稿するぞ!face17

※【「やすらぎの森・宇生」(萩市 江崎 宇生)】につては(今回は)マップトラバしておきました。  

2009年11月08日

全国高校サッカー島根県大会決勝(島根県立サッカー場 益田市)

今回は久々にタイムリーな話題!
今日は、益田市 乙吉町の島根県立サッカー場で
「第88回全国高校サッカー選手権大会島根県大会」の「決勝!」がありました。

立正大湘南高校大社高校
快晴の青立正大湘南高校の黄色大社高校の赤、そして素晴らしいピッチ(サッカーフィールド)の緑
益田市で異次元空間出現face08…【感激face05
結果は2-1で立正大湘南高校の勝利icon86
おめでとうございマスダ!face17

立正大湘南高校の勝利(試合終了)の瞬間!画像


(黄色と赤のリアクションの違いがハッキリわかれる…勝負の世界)

Jリーグを含め国内のサッカーの試合はあまり見ない益田市太郎も、
ここ益田市決勝戦とならば!
予備知識は全くゼロじゃが…緊急参戦icon114…じゃなかった「観戦!」
後半30分ぐらいに益田市 乙吉町の島根県立サッカー場に到着!しかし(駐車場探しに焦る;)

で、やっぱ、リアルはエエのうface17
感情リアル…応援…歓声・応援歌・時々女子達の悲鳴!
立正大湘南高校(学校法人淞南学園 立正大学淞南高等学校)の応援団


(勝手に命名!湘南カナリア軍団icon88face05



大社高校(島根県立大社高等学校)の応援団


(勝手に命名2!大シャー軍団face28


発見!歓声が車内TV(アナログ)よりコンマ数秒早いぞ!…ちなみにワンセグは×じゃった…WHY!?残り時間がわからんかった!
まっ、エエか!そんなこと…

リアル! マジ!ガチ!
なんといっても目の前で島根県の高校サッカー頂点を狙う選手たちの真剣、集中、リアル マジ!ガチ!…選手たちの必死の息遣い、「呻き」までマジ聞こえる!







そして!
これがこの試合最大の山場!↓↓↓後半終盤の大社高校(赤)フリーキック…その直前画像!


(ふと思ったが…ここ益田市の島根県立サッカー場は、ゴールポストのさらに後ろに民家が見える…つーことは、こんな凄い試合も「家」から観戦できる?←コレって何気に凄くねェ!?)
そしてこのフリーキック直後の画像…



…超惜しいicon110
※追記…今日(11/9)TVで確認したが…湘南GKのハイパーナイスセービングicon54じゃったんじゃのう…ワシ(益田市太郎)のおったアングルからはゴールポストにはじかれた様に見えた(劇的凄っ!)

試合終了ホイッスル直後!…大社高校のGK(ゴール・キーパー)…


悔しさがリアルに伝わってくる…face19

益田市でこんな素晴らしいサッカーの試合が観れるなんて!



(そもそも益田市に島根県立のサッカー場があるなんて…わしゃ、全く知らんかったゾface20
とにかく益田市で久々にファンタスティック!超感謝・感激でした!ありがとう!face02

MAP:厚生年金積立金還元融資 島根県立サッカー場】
※ところで、画像見ての通り益田市の島根県立サッカー場…ピッチ(サッカーフィールド)の芝生も超素晴らしい…感謝!face08です!…face24ところで来年も益田市のここで決勝あるんじゃろうか??  

Posted by 益田太郎 at 17:33Comments(6)TrackBack(0)益田市の明るい話題

2009年11月04日

岸静江国治外伝 矢風奥録(益田市某所)

さて、今日は私、益田市太郎にとって、個人的に楽しませて?いただきたき投稿ですface17
最近の一連の投稿、実は、あるお方のコメントによるものでした。
その方とは…益田市出身で今は(どうやら)京にお住まいのブロガー「なまず」さん!
なまずさんのブログ(トップページ)はこちら>>安住の地を求めて・・・なまずの寝床探し
超スゲ~~方っす!というのも、ご先祖様(ご祖父様)が岸静江から譲り受けた「鉄瓶」をお持ちだとか…
岸静江、所縁の地について取材投稿しますので…是非「鉄瓶」見せてください!とコメントしたら…なんとface08画像投稿してくだすった!(チョ~感謝!)
>>岸静江から譲り受けた鉄瓶の画像【安住の地を求めて・・・なまずの寝床探し】より
それがこの鉄瓶じゃ!(なまず様より事前に画像引用の手続きおよび許可のもと掲載させていただいております。)



これは!益田市の民間歴史家にとっては感動face19級のお宝ではなかろうか!
ちゅうわけで、久々に嬉しくなったんで、
ワシ、益田市太郎、友人、南方君と江戸川啓志をよんで、皆で酒を酌み交わしながらチャネリングをしてみたface25

<<以下チャネリング!?以下チャネリング!?以下チャネリング!?>>

一八六六年六月某日、石州(現 島根県 益田市 某所)。
物頭勤方取次の岸静江国治は部下二名を従へ、萬福寺より自らが守を務める扇原関門(現 益田市多田町)の途上。

季節は梅雨、墨の滲むがごとき雲層。連日の雨で濁った川(多田川)の流れ…馬上にて、「ふぁぁぁ…」思わずの欠伸。一筋の涙が静江の頬を垂れた。今の静江には、こんな鉛の如く濁った陳腐、退屈な風景…それらに感ずる地味なる気分を、生かさるる実感と解釈し、妙な嬉しさを感じていた…「感謝」

その日の夕刻、扇原関門近くで静江は一人の少年と話していた…


少年は静江に対し、

「関守様(岸静江のこと)、えらい立派な鉄瓶をお持ちじゃのう!?」

「ほう、おんしはこれ(鉄瓶)がわかるか?(笑)」

「別に、よう知らんのじゃが、エエもんに見えるけぇ…」

「そうか…よし、じゃ、これをおんしにやっぺ!」

「なっなっ、なんでじゃ!?」

「なんでもクソもねーべな…わしらすぐ忙しゅうなんぺし(笑)ましてやもう茶ぁ飲む気(分)じゃねえべな!」

「…」

「なに、タダでやるとは言わん。いくらここが多田つーてもよ(笑)」
…「酒と肴を手配できねえべか!?部下の連中に振舞おうにも最近は暇がねえ」

「酒は何とかなるんじゃけど…多分…「肴」ちゅうてものう…鮎ぐらいしかありゃぁせんのじゃが…今時分」

「上等、上等!(笑)…よし!じゃあ、これ(鉄瓶)は、おんしに先に渡しておく、さっ、直(すぐ)に手配すっぺ!」
「今から…!?」

「おう!すぐに(笑)!『唯今がその時、その時が唯今なり』そんでココは多田だっぺ(爆!)」  
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Posted by 益田太郎 at 22:57Comments(6)TrackBack(0)岸静江国治と益田市

2009年11月03日

扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)

前回>>岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)のつづきです。

今回は益田市指定文化財 扇原関門跡(おうぎはらかんもん あと)、
場所は「岸静江国治の墓」(益田市指定文化財)から歩いて10分弱位。薄暗い林、ずっと上り坂(途中から未舗装で足元やや注意!)…登りつめると「扇原関門跡」があります。

おお、何やら記念碑?お墓?のような構造物が…見えてきた!(というか、逆光で最初は「人影」かとface08



到着するとそれは石碑…「岸静江 戦死之地(岸静江が戦死した場所)」と



さっそくここ「扇原関門跡」に関する案内看板を発見!face17
おおっ!この看板は新しい!



※以下、コンテンツ!
益田市指定文化財
扇原関門跡

 元治元年(一八六四)江戸幕府と長州藩が緊迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたと言われる。
 
 慶応二年(一八六六)六月十六日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約一千五百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守 岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに戦闘が開始された。俗に「石州口の戦い(せきしゅうぐちの戦い)」といわれ、大島口(周防大島)・芸州口(安芸)・小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第二次長州戦争の口火となった。

圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌十七日には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。
益田市
益田市教育委員会


圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ…
仁王立ちのまま絶命face08
現場責任者の「意地」を感じるのう…face19
それに比べ(最近、益田市のここら辺りの歴史について(得意の)調査をしているのじゃが…)
やはり幕府軍(浜田藩等)の上の連中はあっさりicon117icon117icon117逃げたそうじゃ…上司は選べんしんのう…中間管理職ちゅうもんは、いつの世も辛いもんじゃface07
(じゃが、何度も言うがのう、そういうワシだって…本当のところどうするもんやら…岸静江みちょうな潔い行動をとれるじゃろうか…自信は…無いのうface20否、たぶん…icon117じゃろうて)

扇原関門跡が「」と呼ばれる所以(証拠…痕跡)!?



この石碑「岸静江 戦士之地」の後ろあたりから、上ってきた道沿いにこのような石積み、石垣?が…堅牢とはいえないまでも、何らかの防御陣(建物)があったような痕跡があります。

【※岸静江国治の魂をビリビリ感じたいなら!】
前回も最後に書きましたが、恥ずかしながら、私、益田市太郎は、長州軍と幕府軍がバトッた場所を「岸静江国治の墓」の地点だと思っておりましたface20。これは私の単純な知識不足(「仁和寺のある法師」状態icon53)だったわけです。
(でも当時(約20年くらい前)は「岸静江国治の墓」の場所も。昼間でも薄暗かった)

今回、扇原関門跡のことを知り、実際に見ることができたのですが…やはり、ここ「扇原関門跡」の雰囲気は独特…でも正直「こんな地味で狭い場所」しかも、益田市…日本国内の地で、本当になまなましいバトルicon84があったものじゃろうか…?」と若干不思議な思いもしておりました。

ですが!これを見て「やっぱ、ここでバトルicon84があったんじゃのうicon114」と感じました。


「從是北濱田領」…こっかっら北は浜田藩の領地



「00南津和野領」→こっから南は津和野藩の領地(多分)


益田市の近代史ツワー(をもし企画するなら)必須のスポットだと思いました
岸静江国治の魂をビリビリ感じます(少人数…できれば一人で来ればなおさら…)

【MAP:扇原関門跡(益田市多田町)】
※おおよその位置です(すみません)より正確な位置が確認でき次第修正アップします
face17

Yahoo地図(もちろんgoogleマップにも)には「道」は存在しませんが「岸静江国治の墓」から道をはさんで南へ登る小道があります途中まで舗装されていますが、新しい広域農道の下をくぐる感じで「扇原関門跡」へとつながっています。広域農道をくぐってからは未舗装…で突如、雰囲気バリバリに!(そこらへんは次々回あたりに詳しく)  

Posted by 益田太郎 at 11:30Comments(4)TrackBack(0)岸静江国治と益田市

2009年11月02日

岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)

岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)…ということで久々に益田市の話題!
しかも、益田市の偉人・有名人シリーズとなると
>>竹藤九衛門(竹田番匠)をご存知ですか(益田市横田町)2009年06月26日以来です。

で、今回取り上げた「岸静江国治(きし しずえ くにはる)」

かのNHKの大河ドラマで島根県の益田市がからむといえば、
最近ではなんといっても「篤姫」
(絡み方は脚本家、田渕久美子先生が益田市出身ということですけど…face17

実は!実際にNHKの大河ドラマのストーリーの中で益田市が舞台になったこと(場所)があるんです!

そのドラマの名前は「花神(かしん)」(原作:「花神 」司馬遼太郎 先生著)です!
『花神』(かしん)は、NHKで1977年1月2日~12月25日に放送された15作目の大河ドラマ。周防の村医者から倒幕司令官に、明治新政府では兵部大輔にまで登りつめた日本近代軍制の創始者・大村益次郎を中心に、松下村塾の吉田松蔭や奇兵隊の高杉晋作といった、維新回天の原動力となった若者たちを豪快に描いた青春群像劇。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

で、益田市に関連する、その舞台(場所)は扇原関門(おうぎはらかんもん)俗にいう「石州口の戦い」(現 益田市の多田町)
(といっても私、益田市太郎はここらあたりの日本史は、まるっきり無知蒙昧!当のドラマ「花神」の第何話でとりあげられたのか?もしかして、とりあげられていないかも…face20
でも、当時益田市には「NHK大河ドラマ「花神」の舞台…」って感じの看板が(国道191号線、益田市多田町の入口あたり)あったのは確かface18

…ということで、

今回は、益田市指定文化財という「岸静江国治の墓」をご紹介します。
(結構長いです(笑))
まずは、「岸静江国治の墓」案内看板
(この看板もカナリいい感じです♪)



益田市指定文化財(昭和46年6月21日)

岸静江国治の墓

慶応二年(一八六六年)六月十六日朝、横田を出発した大村益次郎(旧名 村田蔵六)の指揮する長州軍は九ツ時頃(十二時)扇原関門に迫り開門を要求した。隊長 岸静江国治はこれを拒絶し、僅かな部下と急募の農民と共に関門の守りについたのであった、圧倒的な兵力を誇る長州軍のため、関門は重大な危機に直面したので、国治はまず部下と農民を退去せしめ、唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け、三十一歳を一期として壮烈な戦死をとげたのであった。

昭和八年 岸静江国治は靖国神社に合祀せられた。

昭和五十二年四月
益田市
益田市教育委員会

※国治はまず部下と農民を退去せしめ唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け…face19

なんとも凄い人が我ら益田市におったもんじゃ!face19(感動)
どう考えても勝ち目のないバトルで、
「いらぬ犠牲者を出したくない」とする長としての人格!

まさに「現在の長たるモノ達に 爪の垢でも…」
といいたいところじゃが
ワシとて、本音のところ自信がないぞ!

で、この岸静江国治…石見人にも凄い人物がおったものだ!と一瞬感動したのだけど…
実は!上野国(こうずけのくに)出身…つまり現在の(ほぼ)群馬県出身ということ(残念!)
でも、ワシが付き合ってる会社様のうち2社が群馬県!これも何かの縁じゃのう…

現在の「岸静江国治の墓」の様子



約二十年前に初めてここに来た時は、周辺に木が繁り、昼間でも暗かったような気が…(益田市の元町の実家から「歩き」で来た記憶が…)
今は、こんな立派な道路ができています。



(車で行けてラクチンでした)
【MAP:「岸静江国治の墓」(益田市多田町)】


次回は、「岸静江国治」が戦死した「扇原関門跡」です。
※実は、私、益田市太郎これまで、「岸静江国治の墓」の場所=「扇原関門跡」と思っていました。ですから初めてこの益田市多田町の「岸静江国治の墓」を訪れたときに一生懸命「銃弾」を探しました(笑)  

Posted by 益田太郎 at 01:15Comments(4)TrackBack(0)岸静江国治と益田市