2009年05月31日
大金鶏菊と豚菜で益田市が欧米か!?
最近、島根県の益田市ではいたるところで黄色い花が咲いていますね!?
萩石見空港へ向かう道や、国道9号線や191号線…ちょっとした地面の隙間があればイッキに群生し黄色い花が沢山。
最初の頃は、まだ珍しくて、私が好きな山吹(ヤマブキ)の花の色にも似てるんで
(ヤマブキの花を知らない人は…参照:>>ヤマブキはミツバチを育む(ヤマブキパワーの研究)(2009年04月14日投稿))
割と好感を持っていましたし、軽い気持ちで眺めていました。でも、最近になると益田市のいたるところでこの花が咲いて、美都町でもこの花が咲いていたのをみて、
いよいよ「こりゃちょっと気になる!」モードになて来ました
ついに自宅近くの空き地にもこの黄色い花が群生し始めたのをきっかけに、
例によって、花色でひける「野草・雑草観察図鑑」(成美堂出版)で調べてみたところ、どうやらこの花は、

大金鶏菊(オオキンケイギク)らしいです。
益田市では去年はこんなに咲いていましたっけ!?あと、島根県や近隣の他県ではどうなんでしょう?
花色でひける「野草・雑草観察図鑑」(成美堂出版)によると、大金鶏菊(オオキンケイギク)はキク科ハルシャギク属の多年草だそうです。多年草…ということは来年も益田市のあちこちに!?
原産地は「北米(北アメリカ)」だそうです
大金鶏菊(オオキンケイギク)は
だそうです。
益田市で帰化植物といえば、私らが小学生時代ごろにやはり全国的に増えた「セイタカアワダチソウ」はインパクトありすぎでしたネ
この大金鶏菊(オオキンケイギク)はセイタカアワダチソウに比べれば丈が低い分まあなんとかって感じですが。でも、下の画像のように、タンポポの領域まで侵略してきているんで若干不安が…

益田市で帰化植物といえば、実はもうひとつ!
豚菜(ブタナ)!
萩石見空港の「風の丘広場」の広い芝生地帯に繁茂していました(先日まで)
近くで見るとタンポポそっくりの黄色い花、葉もタンポポそっくり…ですが茎が細くて長~いんです。
豚菜(ブタナ)はヨーロッパ原産の帰化植物だそうです。…しかも、この豚菜(ブタナ)も大金鶏菊(オオキンケイギク)と同様に多年草だそうですよ
ブタナは昭和の初期に飼料を目的に導入したのが帰化したそうです。(豚菜(ブタナ)の画像もって思ったんですが、今日の段階で萩石見空港の「風の丘広場」では、花がみんな終わっていました。)
【へんしゅう後記】
大金鶏菊(オオキンケイギク)も豚菜(ブタナ)も黄色い花。悪くはないんですが…帰化植物となれば(益田市の)環境問題にはちがいありません。やはり帰化植物は爆発的に広がるんで、益田市の在来植物にたいして影響があるんじゃないかと地味に心配しておりマスだ!
豚菜(ブタナ)については フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用します。
萩石見空港へ向かう道や、国道9号線や191号線…ちょっとした地面の隙間があればイッキに群生し黄色い花が沢山。
最初の頃は、まだ珍しくて、私が好きな山吹(ヤマブキ)の花の色にも似てるんで
(ヤマブキの花を知らない人は…参照:>>ヤマブキはミツバチを育む(ヤマブキパワーの研究)(2009年04月14日投稿))
割と好感を持っていましたし、軽い気持ちで眺めていました。でも、最近になると益田市のいたるところでこの花が咲いて、美都町でもこの花が咲いていたのをみて、
いよいよ「こりゃちょっと気になる!」モードになて来ました

ついに自宅近くの空き地にもこの黄色い花が群生し始めたのをきっかけに、
例によって、花色でひける「野草・雑草観察図鑑」(成美堂出版)で調べてみたところ、どうやらこの花は、
大金鶏菊(オオキンケイギク)らしいです。
益田市では去年はこんなに咲いていましたっけ!?あと、島根県や近隣の他県ではどうなんでしょう?
花色でひける「野草・雑草観察図鑑」(成美堂出版)によると、大金鶏菊(オオキンケイギク)はキク科ハルシャギク属の多年草だそうです。多年草…ということは来年も益田市のあちこちに!?
原産地は「北米(北アメリカ)」だそうです

大金鶏菊(オオキンケイギク)は
明治の中ごろ渡来し、一時広汎にふえ、第二次世界大戦後の中頃から衰退したが、近年ワイルドフラワーの一つとして播かれたものが、全国各地で旺盛に半野生化している。
(「野草・雑草観察図鑑」(成美堂出版)より引用)
だそうです。
益田市で帰化植物といえば、私らが小学生時代ごろにやはり全国的に増えた「セイタカアワダチソウ」はインパクトありすぎでしたネ

この大金鶏菊(オオキンケイギク)はセイタカアワダチソウに比べれば丈が低い分まあなんとかって感じですが。でも、下の画像のように、タンポポの領域まで侵略してきているんで若干不安が…
益田市で帰化植物といえば、実はもうひとつ!
豚菜(ブタナ)!

萩石見空港の「風の丘広場」の広い芝生地帯に繁茂していました(先日まで)
近くで見るとタンポポそっくりの黄色い花、葉もタンポポそっくり…ですが茎が細くて長~いんです。
豚菜(ブタナ)はヨーロッパ原産の帰化植物だそうです。…しかも、この豚菜(ブタナ)も大金鶏菊(オオキンケイギク)と同様に多年草だそうですよ

ブタナは昭和の初期に飼料を目的に導入したのが帰化したそうです。(豚菜(ブタナ)の画像もって思ったんですが、今日の段階で萩石見空港の「風の丘広場」では、花がみんな終わっていました。)
【へんしゅう後記】
大金鶏菊(オオキンケイギク)も豚菜(ブタナ)も黄色い花。悪くはないんですが…帰化植物となれば(益田市の)環境問題にはちがいありません。やはり帰化植物は爆発的に広がるんで、益田市の在来植物にたいして影響があるんじゃないかと地味に心配しておりマスだ!
豚菜(ブタナ)については フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用します。
ブタナ(黄色強調は益田市太郎による)
科 : キク科 Asteraceae
属 : エゾコウゾリナ属 Hypochaeris
種 : ブタナ H. radicata
学名
Hypochaeris radicata
和名
ブタナ(豚菜)
英名
Catsear
ブタナ(豚菜、学名:Hypochaeris radicata)は、キク科エゾコウゾリナ属の多年草。ヨーロッパ原産で、日本では帰化植物。
原産地ではハーブとして食用にもされる。現在ではアメリカ大陸やオーストラリア、ニュージーランドなど、世界中に帰化。日本には昭和初期に入ってきたとされ、北海道及び本州の広い範囲に分布。道路脇、空き地、牧場、草原、農耕地の周辺で生育している。
開花時期は6~9月頃。外観はタンポポに似るが、ブタナは30~60cm程度の花茎が途中で数本に枝分かれし、それぞれの頭に直径3cmほどの黄色い花をつけるのが特徴。また花茎に葉は付いていない。葉はロゼット状で裏にびっしりと毛が生えており、根は深い。たくさんのブタナが隙間なく群生し、さながら黄色い絨毯を広げたような光景は美しいが、群生した地域では芝生が枯れてしまうなどの被害も発生するため、害草として駆除されてしまうことも多い。
和名の「ブタナ」は、フランスでの俗名Salade de pore(ブタのサラダ)を翻訳したものが由来となっている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
2009年05月26日
樟の花…やはり島根県で一番大きい木は最高!
日本で木にかかわるお仕事をしている方ならきっとお分かりになるでしょう!?
今回も「島根県で一番大きい木」津和野町池村の『大元神社跡の樟(くす)の木』についてです。
(ちなみに樟の木(クスノキ)はスタジオジブリさんの「となりのトトロ」、あのトトロの住かの木にも設定されてるようです。)
スペックは、
・樹高(木の高さ)は約30メートル
・幹周り約12メートル(目通り幹周)
※目通り幹周…目の高さでの立ち木の幹の周り(幹の円周)の長さ
・枝張り約40メートル
島根県で一番大きい木」…津和野町池村の『大元神社跡の樟(くす)』がいかに大きいか…前回の益田市太郎の投稿にも、後で乗せておいたんじゃが、この地図↓航空写真モード(航空写真をクリック)にすると、何と確認できるんじゃ!(赤い中心線をずらしてみて!…この木…大元神社跡の樟(くす)の木のデカさがリアルにわかるぞ!
)
【MAP:島根県で一番大きい木(大元神社跡の樟)】
あっ、ちなみに、島根県で一番大きい木…大元神社跡の樟(くす)は、島根県の天然記念物第一号です!
ほんで、余談じゃが、益田市にもあります島根県の天然記念物、
第23号が「金谷の城山桜(益田市美都町)」>>金谷の城山桜と周辺の風景(益田市美都町) 投稿日:2009年04月03日
第33号が「後山都茂屋のヤブツバキ」(益田市美都町)>>まだ見たことがありません
話は戻して、大元神社跡の樟(くす)
近寄って見ると花?が咲いておった
これが樟の花じゃ!地味じゃが、香りは最高!
(調べてみると、ネットでは樟からとった精油(エッセンシャルオイル)も開発販売されているようですね)

そしてこの樟の木の蘊蓄(うんちく)は…

やはり、巨木は、そこに暮らす人の強い敬愛が育てるものなんじゃ!石見人の真面目さが伝わるのう
(地味に感動!)
次回はこの蘊蓄と樟パワーについて…の予定です
今回も「島根県で一番大きい木」津和野町池村の『大元神社跡の樟(くす)の木』についてです。
(ちなみに樟の木(クスノキ)はスタジオジブリさんの「となりのトトロ」、あのトトロの住かの木にも設定されてるようです。)
スペックは、
・樹高(木の高さ)は約30メートル
・幹周り約12メートル(目通り幹周)
※目通り幹周…目の高さでの立ち木の幹の周り(幹の円周)の長さ
・枝張り約40メートル
島根県で一番大きい木」…津和野町池村の『大元神社跡の樟(くす)』がいかに大きいか…前回の益田市太郎の投稿にも、後で乗せておいたんじゃが、この地図↓航空写真モード(航空写真をクリック)にすると、何と確認できるんじゃ!(赤い中心線をずらしてみて!…この木…大元神社跡の樟(くす)の木のデカさがリアルにわかるぞ!
)【MAP:島根県で一番大きい木(大元神社跡の樟)】
あっ、ちなみに、島根県で一番大きい木…大元神社跡の樟(くす)は、島根県の天然記念物第一号です!
ほんで、余談じゃが、益田市にもあります島根県の天然記念物、
第23号が「金谷の城山桜(益田市美都町)」>>金谷の城山桜と周辺の風景(益田市美都町) 投稿日:2009年04月03日
第33号が「後山都茂屋のヤブツバキ」(益田市美都町)>>まだ見たことがありません
話は戻して、大元神社跡の樟(くす)
近寄って見ると花?が咲いておった

これが樟の花じゃ!地味じゃが、香りは最高!
(調べてみると、ネットでは樟からとった精油(エッセンシャルオイル)も開発販売されているようですね)
そしてこの樟の木の蘊蓄(うんちく)は…
やはり、巨木は、そこに暮らす人の強い敬愛が育てるものなんじゃ!石見人の真面目さが伝わるのう
(地味に感動!)次回はこの蘊蓄と樟パワーについて…の予定です
2009年05月24日
島根県で一番大きい木(大元神社跡の樟)津和野町池村
前回に引き続き、島根県の益田市のおとなり津和野町の話題です。
先日(5月20日)、高津川水系でアユの「さお釣り」が解禁になったことをお伝えしました。その際、解禁初日の釣りキチの方々の画像を撮影した場所は「道の駅シルクウェイにちはら」(島根県鹿足郡津和野町池村)でした。
>>高津川水系でアユのさお釣りが解禁です 投稿日:2009年05月21日
今日は、「道の駅シルクウェイにちはら」から車で5~6分ぐらいで行ける
「島根県で一番大きい木」、『大元神社跡の樟(くす)』(島根県の天然記念物)をご紹介します。
遠くから見ると、こんもりとした小さな山にみえます。

もう少し近づいてみましょう。(デカさがわかりますか?)

「島根県で一番大きい木」…津和野町池村の『大元神社跡の樟(くす)』は樹齢は約400年
その大きさは、
・樹高(木の高さ)は約30メートル、
・幹周り約12メートル(目通り幹周)
※目通り幹周…目の高さでの立ち木の幹の周り(幹の円周)の長さ…ということは、パイ(3.14)で割れば直径がわかるわけだから…大元神社跡の樟の木の直径(目通り直径)は約4メートルじゃ!
・枝張り約40メートル(枝が傘のように水平方向に広がっている幅)
といった大きさです。
益田市の巨木といえば…益田市民にも人気の桜の木!
益田市美都町の金谷の城山桜(樹齢約600年)
画像は>>金谷の城山桜と周辺の風景(益田市美都町)2009年04月03日
金谷の城山桜…この桜の巨木で
樹高(木の高さ)は約15メートル、幹周り(目通り幹周)約7メートル
ということですから
「島根県で一番大きい木」…津和野町池村の『大元神社跡の樟(くす)』がいかに大きいかがわかります。(よね!?)
【MAP:島根県で一番大きい木(大元神社跡の樟)】
航空写真モードにして(赤い中心線をずらしてみると…この樟(くす)の木が見えるぞ!…これが一番この木のデカさがわかるかもネ!
)
※かなり広い駐車場(トイレ付)もあります。…近くで飼っているヤギも地味にカワイイぞ!
【へんしゅう後記①…島根県で一番大きい木をあの日立の樹と比較
】
あと、もっと多くの方が知っている「大きな木」といえば…日立の樹…「この木なんの木気になる木♪」でのCMは有名ですよね!
日立の樹プロフィール>>http://www.hitachinoki.net/profile/prof.html(サイト名:日立の樹オンラインより)
高さ 約25メートル 、幅 約40メートル 、胴回り(幹回り) 約7メートル ということです。
(木の名前は、モンキーポッド(MONKEY POD)マメ科 学名 サマネア・サマン(SAMANEA SAMAN) )
ちなみに、「日立の樹」がある場所は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島の「モアナルア・ガーデンパーク」だそうです
【へんしゅう後記②…島根県で一番大きい木をガンダムと比較!
】
「島根県で一番大きい木」…津和野町池村の『大元神社跡の樟(くす)』のデカさなら…
今、東京都のお台場でバンダイナムコグループが組み立て中の
全高18メートル程度のガンダム(RX-78-2 ガンダム)なら完全にすっぽり隠れてしまうわけですな!
先日(5月20日)、高津川水系でアユの「さお釣り」が解禁になったことをお伝えしました。その際、解禁初日の釣りキチの方々の画像を撮影した場所は「道の駅シルクウェイにちはら」(島根県鹿足郡津和野町池村)でした。
>>高津川水系でアユのさお釣りが解禁です 投稿日:2009年05月21日
今日は、「道の駅シルクウェイにちはら」から車で5~6分ぐらいで行ける
「島根県で一番大きい木」、『大元神社跡の樟(くす)』(島根県の天然記念物)をご紹介します。
遠くから見ると、こんもりとした小さな山にみえます。
もう少し近づいてみましょう。(デカさがわかりますか?)
「島根県で一番大きい木」…津和野町池村の『大元神社跡の樟(くす)』は樹齢は約400年
その大きさは、
・樹高(木の高さ)は約30メートル、
・幹周り約12メートル(目通り幹周)
※目通り幹周…目の高さでの立ち木の幹の周り(幹の円周)の長さ…ということは、パイ(3.14)で割れば直径がわかるわけだから…大元神社跡の樟の木の直径(目通り直径)は約4メートルじゃ!

・枝張り約40メートル(枝が傘のように水平方向に広がっている幅)
といった大きさです。
益田市の巨木といえば…益田市民にも人気の桜の木!
益田市美都町の金谷の城山桜(樹齢約600年)
画像は>>金谷の城山桜と周辺の風景(益田市美都町)2009年04月03日
金谷の城山桜…この桜の巨木で
樹高(木の高さ)は約15メートル、幹周り(目通り幹周)約7メートル
ということですから
「島根県で一番大きい木」…津和野町池村の『大元神社跡の樟(くす)』がいかに大きいかがわかります。(よね!?)
【MAP:島根県で一番大きい木(大元神社跡の樟)】
航空写真モードにして(赤い中心線をずらしてみると…この樟(くす)の木が見えるぞ!…これが一番この木のデカさがわかるかもネ!
)※かなり広い駐車場(トイレ付)もあります。…近くで飼っているヤギも地味にカワイイぞ!
【へんしゅう後記①…島根県で一番大きい木をあの日立の樹と比較
】あと、もっと多くの方が知っている「大きな木」といえば…日立の樹…「この木なんの木気になる木♪」でのCMは有名ですよね!
日立の樹プロフィール>>http://www.hitachinoki.net/profile/prof.html(サイト名:日立の樹オンラインより)
高さ 約25メートル 、幅 約40メートル 、胴回り(幹回り) 約7メートル ということです。
(木の名前は、モンキーポッド(MONKEY POD)マメ科 学名 サマネア・サマン(SAMANEA SAMAN) )
ちなみに、「日立の樹」がある場所は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島の「モアナルア・ガーデンパーク」だそうです

【へんしゅう後記②…島根県で一番大きい木をガンダムと比較!
】「島根県で一番大きい木」…津和野町池村の『大元神社跡の樟(くす)』のデカさなら…
今、東京都のお台場でバンダイナムコグループが組み立て中の
全高18メートル程度のガンダム(RX-78-2 ガンダム)なら完全にすっぽり隠れてしまうわけですな!
2009年05月21日
高津川水系でアユのさお釣りが解禁です
益田市の清流日本一の高津川水系では、昨日(5月20日)からアユ漁のさお釣りが解禁されました。今年は天然遡上(そじょう)が活発だということで遠くから来た釣り人の方々も喜んでいただけるのではないでしょうか
益田市を流れる高津川が「清流日本一」でありかつ良質のアユに恵まれている理由は、ダムがないということ(全国で唯一ダムのない一級河川だそうです)。
益田市のアユが良質な理由は、高津川水系にダムがなく、せき止められることのないきれいな水により良質の川藻(石につくコケ)を(アユが)食べているからと言います。
昨日は昼飯を食べに道の駅シルクウェイにちはら(島根県鹿足郡津和野町池村)に寄りました。
ここ(道の駅シルクウェイにちはら)には、鮎の寄り道「親水公園」という高津川沿いにつくられた公園があるのですが…そこから高津川の様子を見ましたら

アユ釣りに集中している方が…↑この方は本当に上手で、10分程度で2~3匹釣り上げましたよ!(スゴイ!)

この場所だけでアユ釣りの方20人くらいはいました。(平日でも釣りキチには関係ないんじゃのう…)…ですから休日ともなるとものすごい事になるんじゃないかな…?
近くの橋の上から見ましたら…(粒のようにしか見えませんが
)

この画像の中にも8人の釣り人が…道の駅シルクウェイにちはらの駐車場や河原にあったアユ釣り人らしき車のナンバーを見ると「広島」とか「大阪」が…
。
5時間ぐらいで100匹以上釣った人もいるということです。
※ちなみにアユの網漁の解禁は6月7日の日の入りからだということです。
【MAP:道の駅シルクウェイにちはら(島根県鹿足郡津和野町池村)】
今回、アユ釣りシーンを撮影した場所です。アユ釣りに来た地方の方や初心者の方にはいいんじゃないでしょうか?駐車場もあるし、食道や売店、トイレも…シャワー室だって完備されたいますしネ!あと、津和野町や日原(にちはら)、益田市のお土産もいっぱい売ってますよ!お帰りの際には是非お買い求めくださいネ!
【へんしゅう後記】
「川の女王」と言われる「アユ」益田市ではアユは「塩焼き」、「アユ寿司」、「(にが)うるか」などで食べるということです…
確か、「道の駅シルクウェイにちはら」の食堂(3つあるうちの真ん中の店)では、うるかが小さな壷にいれた、ご自由にお取りください的サービスがあります。(これには流石に驚いた
)
益田市を流れる高津川が「清流日本一」でありかつ良質のアユに恵まれている理由は、ダムがないということ(全国で唯一ダムのない一級河川だそうです)。益田市のアユが良質な理由は、高津川水系にダムがなく、せき止められることのないきれいな水により良質の川藻(石につくコケ)を(アユが)食べているからと言います。
昨日は昼飯を食べに道の駅シルクウェイにちはら(島根県鹿足郡津和野町池村)に寄りました。
ここ(道の駅シルクウェイにちはら)には、鮎の寄り道「親水公園」という高津川沿いにつくられた公園があるのですが…そこから高津川の様子を見ましたら
アユ釣りに集中している方が…↑この方は本当に上手で、10分程度で2~3匹釣り上げましたよ!(スゴイ!)
この場所だけでアユ釣りの方20人くらいはいました。(平日でも釣りキチには関係ないんじゃのう…)…ですから休日ともなるとものすごい事になるんじゃないかな…?
近くの橋の上から見ましたら…(粒のようにしか見えませんが
)この画像の中にも8人の釣り人が…道の駅シルクウェイにちはらの駐車場や河原にあったアユ釣り人らしき車のナンバーを見ると「広島」とか「大阪」が…
。5時間ぐらいで100匹以上釣った人もいるということです。
※ちなみにアユの網漁の解禁は6月7日の日の入りからだということです。
【MAP:道の駅シルクウェイにちはら(島根県鹿足郡津和野町池村)】
今回、アユ釣りシーンを撮影した場所です。アユ釣りに来た地方の方や初心者の方にはいいんじゃないでしょうか?駐車場もあるし、食道や売店、トイレも…シャワー室だって完備されたいますしネ!あと、津和野町や日原(にちはら)、益田市のお土産もいっぱい売ってますよ!お帰りの際には是非お買い求めくださいネ!

【へんしゅう後記】
「川の女王」と言われる「アユ」益田市ではアユは「塩焼き」、「アユ寿司」、「(にが)うるか」などで食べるということです…
確か、「道の駅シルクウェイにちはら」の食堂(3つあるうちの真ん中の店)では、うるかが小さな壷にいれた、ご自由にお取りください的サービスがあります。(これには流石に驚いた
) 2009年05月18日
防災訓練:水防技術の向上とその記録…は?
昨日の島根県の益田市での高津川水防演習・益田地区総合防災訓練の記事が早速ありました。(やはり、昨日の私が見学したものは、ごくわずかで)水防や防災に関するいろいろなコンテンツ(演習や訓練)があったようです。それと益田市民も1000人/51000人ぐらい参加されたようです。
Yahoo ニュース 5月18日
防災訓練:水防技術の向上も…益田市・高津川河川敷(島根県)
ニュース記事で「何があったか」についてわかりました。(ありがとう)
水防団による水防工法競技会
・大型台風による大雨で高津川の水位が急上昇しているという想定で、同市や津和野町、吉賀町の水防団員らが土のうなどを積み上げた。
・災害時の山崩れによるバス事故を想定した訓練
(見たかったのー)
益田市太郎の昨日の益田市の「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」に関する投稿は
コチラ>>高津川水防演習・益田地区総合防災訓練で学ぶ2009年05月17日
この訓練の内容は行けなかったり、知らなかった益田市民もいるでしょうから、できるだけ早くビデオ収録したものをDVD等で観たいものです。
今回の益田市での「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」が実施されたことは巷の「祭り」ではない公共知識・財産ですよね!まさに
AEDなんかは、インストラクターの女性の方は大変わかりやすく一般の益田市民にレクチャーしてましたし…

(すみません…これしか画像がないもので)
でもAEDの使用法についてのレクチャー動画なんて、(できたら)最高の救急に関する具体的な教材ですよね
Yahoo ニュース 5月18日
防災訓練:水防技術の向上も…益田市・高津川河川敷(島根県)
高津川水防演習と益田地区総合防災訓練の合同演習が17日、益田市高津の高津川河川敷で開かれた。国土交通省中国地方整備局や県、益田市などの主催で、自治体や自衛隊、学校、地元自治会や企業など40機関、計約1600人が参加した。
(中略)また、水防技術の向上も柱の一つに掲げ、水防団による水防工法競技会なども開かれた。競技会では、大型台風による大雨で高津川の水位が急上昇しているという想定で、同市や津和野町、吉賀町の水防団員らが土のうなどを積み上げた。
また、災害時の山崩れによるバス事故を想定した訓練もあった。
ニュース記事で「何があったか」についてわかりました。(ありがとう)
水防団による水防工法競技会
・大型台風による大雨で高津川の水位が急上昇しているという想定で、同市や津和野町、吉賀町の水防団員らが土のうなどを積み上げた。
・災害時の山崩れによるバス事故を想定した訓練
(見たかったのー)
益田市太郎の昨日の益田市の「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」に関する投稿は
コチラ>>高津川水防演習・益田地区総合防災訓練で学ぶ2009年05月17日
この訓練の内容は行けなかったり、知らなかった益田市民もいるでしょうから、できるだけ早くビデオ収録したものをDVD等で観たいものです。
今回の益田市での「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」が実施されたことは巷の「祭り」ではない公共知識・財産ですよね!まさに
AEDなんかは、インストラクターの女性の方は大変わかりやすく一般の益田市民にレクチャーしてましたし…
(すみません…これしか画像がないもので)
でもAEDの使用法についてのレクチャー動画なんて、(できたら)最高の救急に関する具体的な教材ですよね
2009年05月17日
高津川水防演習・益田地区総合防災訓練で学ぶ
今日の午前中、益田市では「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」が実施されました。
会場は高津川の高津川河口付近河川敷で鴨島大橋下流西側
数週間前からバックホー数機が整地をしていて「いったい何ができるんだろう?」と思ってみてました。
でっ、そこが「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」の会場であることを知ったのは一週間ほど前、益田市の高津川新大橋手前でこのイベントによる交通渋滞(の予報)を告げる看板を見て「私ら一般市民にはあまり関係のないイベントなんだろう…」と思いつつ地味に関心を持っていました
イベントの当日の今日はあいにくの雨模様でしたが、やはり気になったので遠くからでもいいからどんなイベントコンテンツがあるのか…(会場も近いことだし…)のぞいてみることにしました。
で、会場近くのガードマンさんに聞いたところ、なんと!
「一般の人の入場OK!」だったんですね…
(あとで調べてみたわかったんですが)
このイベント「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」は、
特に「広く住民参加を呼びかけ、住民が参加しやすい演習とする」というのがポイントで、その一環として、防災・減災を目的とした、住民向け、自治体向けの非常用品、水防資機材等の「展示コーナー」も募集したということでした。
ちなみに、主催と参加機関は、
主 催: 国土交通省、島根県、益田市、津和野町、吉賀町
参加機関: 警察、陸上自衛隊、益田広域消防本部、気象台、日本赤十字、益田医師会病院、NTT、NTTドコモ、中国電力、建設業協会益田支部、地元自治会等
とのことでした…
実際のイベント会場では(午前中で終了)ということもあり殆どのコンテンツは見学できなかったのですが
それでも!
①AED(Automated External Defibrillator)の実習(デモ)をみれたことはかなり役に立ちました

AED:自動体外式除細動器(じどうたいがいしきじょさいどうき)は最近いろんなところに設置しているのを見るが、これ(AED)が何のためにあるのかは知っていても、「どう使うのか」をわしは知らんかった!(たぶん多くの益田市民も)
②陸上自衛隊の野外炊具を生でみれたことと、それで作った飯による「にぎりめし」を3個ご馳走になれて嬉しかった…実に美味しく炊けた飯だった(若干硬めなところが「にぎりめし」向きで…米は益田市の米だったのだろうか?)
(個人的な、マニアックな興味じゃが…あの野外炊具が、野外炊具1号(改)なのか 野外炊具2号(改)だったのか…今から思えば隊員さんに聞いておけば良かった。)
とにかく、出雲からみえたという陸上自衛隊の方々に感謝じゃ!
③益田市のSATY(サティ)さんが、カップめん(もちろんTOPVALU)とお茶(500ccペットボトル)(もちろん、これもTOPVALU)をプレゼントしてくれました。
(マイカルさんはさすがじゃ!わしのような小市民のハートをきっちりゲットした!
)
①②③と、ちょこっとしか見学できなかったのが残念じゃったが、本当に益田市民の安心・安全な生活の為にも、役立つイベントだと感じたのう。次回は、最初っから参加見学したいもんじゃ!来年も「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」をぜひ開催してください…
本日の「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」メイン会場の様子…

【へんしゅう後記】
デジカメのバッテリーがなくなって、たった2枚しか画像が撮れなかったです。スミマセン
でも明日はいろんなメディアでいろんな画像や動画がみれることでしょうね!
そういえば…マイカルさんといえば、今年2009年2月に益田市との防災協定:「災害時における支援協力に関する協定」を結ばれたことを思い出しました。
【MAP:益田市のサティ(SATY)さんの場所は…益田市乙吉町イ95-10】
会場は高津川の高津川河口付近河川敷で鴨島大橋下流西側
数週間前からバックホー数機が整地をしていて「いったい何ができるんだろう?」と思ってみてました。
でっ、そこが「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」の会場であることを知ったのは一週間ほど前、益田市の高津川新大橋手前でこのイベントによる交通渋滞(の予報)を告げる看板を見て「私ら一般市民にはあまり関係のないイベントなんだろう…」と思いつつ地味に関心を持っていました

イベントの当日の今日はあいにくの雨模様でしたが、やはり気になったので遠くからでもいいからどんなイベントコンテンツがあるのか…(会場も近いことだし…)のぞいてみることにしました。
で、会場近くのガードマンさんに聞いたところ、なんと!

「一般の人の入場OK!」だったんですね…
(あとで調べてみたわかったんですが)
このイベント「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」は、
特に「広く住民参加を呼びかけ、住民が参加しやすい演習とする」というのがポイントで、その一環として、防災・減災を目的とした、住民向け、自治体向けの非常用品、水防資機材等の「展示コーナー」も募集したということでした。
ちなみに、主催と参加機関は、
主 催: 国土交通省、島根県、益田市、津和野町、吉賀町
参加機関: 警察、陸上自衛隊、益田広域消防本部、気象台、日本赤十字、益田医師会病院、NTT、NTTドコモ、中国電力、建設業協会益田支部、地元自治会等
とのことでした…
実際のイベント会場では(午前中で終了)ということもあり殆どのコンテンツは見学できなかったのですが

それでも!
①AED(Automated External Defibrillator)の実習(デモ)をみれたことはかなり役に立ちました

AED:自動体外式除細動器(じどうたいがいしきじょさいどうき)は最近いろんなところに設置しているのを見るが、これ(AED)が何のためにあるのかは知っていても、「どう使うのか」をわしは知らんかった!(たぶん多くの益田市民も)
②陸上自衛隊の野外炊具を生でみれたことと、それで作った飯による「にぎりめし」を3個ご馳走になれて嬉しかった…実に美味しく炊けた飯だった(若干硬めなところが「にぎりめし」向きで…米は益田市の米だったのだろうか?)
(個人的な、マニアックな興味じゃが…あの野外炊具が、野外炊具1号(改)なのか 野外炊具2号(改)だったのか…今から思えば隊員さんに聞いておけば良かった。)
とにかく、出雲からみえたという陸上自衛隊の方々に感謝じゃ!
③益田市のSATY(サティ)さんが、カップめん(もちろんTOPVALU)とお茶(500ccペットボトル)(もちろん、これもTOPVALU)をプレゼントしてくれました。
(マイカルさんはさすがじゃ!わしのような小市民のハートをきっちりゲットした!
)①②③と、ちょこっとしか見学できなかったのが残念じゃったが、本当に益田市民の安心・安全な生活の為にも、役立つイベントだと感じたのう。次回は、最初っから参加見学したいもんじゃ!来年も「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」をぜひ開催してください…

本日の「高津川水防演習・益田地区総合防災訓練」メイン会場の様子…
【へんしゅう後記】
デジカメのバッテリーがなくなって、たった2枚しか画像が撮れなかったです。スミマセン

でも明日はいろんなメディアでいろんな画像や動画がみれることでしょうね!
そういえば…マイカルさんといえば、今年2009年2月に益田市との防災協定:「災害時における支援協力に関する協定」を結ばれたことを思い出しました。
島根県益田市との防災協定締結について
株式会社マイカルは、島根県益田市との間において、2009年2月6日(金)に「災害時における支援協力に関する協定」を締結することになりましたのでお知らせいたします。
この協定は、益田市内で地震・風水害等による大規模災害が発生した際に、市からの要請により益田サティを通じて食料品や日用品などの生活必需品を供給するほか、一次避難場所やトイレの提供などを行なうものです。
当社では、地域に密着した店づくりの観点からも、引き続きこのような取り組みを積極的に展開し、支援協力の輪を広げて参りたいと考えております。
(MYCALさんの公式サイト内カテゴリーニュースリリースより引用)※赤字強調は益田市太郎による
【MAP:益田市のサティ(SATY)さんの場所は…益田市乙吉町イ95-10】
2009年05月15日
能登川で見つけた「赤石」と匹見川の岸ツツジ
益田市の能登川ってどこにあるかご存知ですか?
(このページの下の方に地図(YAHOO!地図より)があります。)
実は、先日以来何度か特集しました益田市美都町の丸山銅山跡を流れている川が能登川です。
(正確にはもう一本の川と合流して能登川は成り立っていうようなのでどちらが本流なのかは定かではありません)
ちなみに丸山銅山跡(旧安養寺跡)での
能登川の上流の様子はこちらのページ>>丸山銅山跡と旧安養寺跡、そして山烏行淵2009年05月09日
益田市内に「能登」という地名…ちょっと不思議な感じがします。益田市太郎としてはこの名前の由来をいずれは調べてみたいと思っています。(益田市の郷土史に詳しい方がいらっしゃいましたら是非とも教えてくださいませ
)
さて早速ですが、今回のタイトル『能登川で見つけた「赤石」』の画像です。

この赤石は、どうやら、本体が赤い石ではなく、なんらかの理由で赤い色に染まった…感じがする石です。
(何気に不気味です
)

鉄分が多いんでしょうか…銅などの鉱山の周りの川にはこのような変色(着色)された石、岩が多く見られます。昔の人、山烏行淵さんとかが鉱山を探す場合、植生とこのような川の石の色なんかを兆しとして手がかりにしていたんだろうと思いました。
この能登川は、益田市を流れるあの清流日本一の「高津川」の支流、「匹見川」につながっています。
丸山銅山跡(旧安養寺跡)視察(探検)後、能登の大竜頭
※能登の大竜頭>>世界初公開 「能登の大竜頭」(益田市能登川)2009年04月06日
この日(撮影日は今年の4月下旬)の匹見川では、「岸ツツジ」が満開でした

岸ツツジ(岸躑躅)は、四万十川では有名でファンも多いツツジですが、益田市でも高津川支流の匹見川や高津川の上流、特に(「日原(にちはら)」と「柿木(かきのき)」の中間の)左鎧(さぶみ)地区あたりの両岸に本当にたくさん咲いています。(見た目は清楚な紅紫色の花をつける岸ツツジですが、実は川べりの岩場、岩の割れ目に根をおろして育つ、見た目からは想像できない、かなりタフなツツジなんじゃ
。)
【MAP:益田市の能登川と匹見川(高津川の支流)の接点周辺】
…野々峠(近くに丸山銅山跡、旧安養寺がある)もわかるよ
(このページの下の方に地図(YAHOO!地図より)があります。)
実は、先日以来何度か特集しました益田市美都町の丸山銅山跡を流れている川が能登川です。
(正確にはもう一本の川と合流して能登川は成り立っていうようなのでどちらが本流なのかは定かではありません)
ちなみに丸山銅山跡(旧安養寺跡)での
能登川の上流の様子はこちらのページ>>丸山銅山跡と旧安養寺跡、そして山烏行淵2009年05月09日
益田市内に「能登」という地名…ちょっと不思議な感じがします。益田市太郎としてはこの名前の由来をいずれは調べてみたいと思っています。(益田市の郷土史に詳しい方がいらっしゃいましたら是非とも教えてくださいませ
)さて早速ですが、今回のタイトル『能登川で見つけた「赤石」』の画像です。
この赤石は、どうやら、本体が赤い石ではなく、なんらかの理由で赤い色に染まった…感じがする石です。
(何気に不気味です
)鉄分が多いんでしょうか…銅などの鉱山の周りの川にはこのような変色(着色)された石、岩が多く見られます。昔の人、山烏行淵さんとかが鉱山を探す場合、植生とこのような川の石の色なんかを兆しとして手がかりにしていたんだろうと思いました。
この能登川は、益田市を流れるあの清流日本一の「高津川」の支流、「匹見川」につながっています。
丸山銅山跡(旧安養寺跡)視察(探検)後、能登の大竜頭
※能登の大竜頭>>世界初公開 「能登の大竜頭」(益田市能登川)2009年04月06日
この日(撮影日は今年の4月下旬)の匹見川では、「岸ツツジ」が満開でした

岸ツツジ(岸躑躅)は、四万十川では有名でファンも多いツツジですが、益田市でも高津川支流の匹見川や高津川の上流、特に(「日原(にちはら)」と「柿木(かきのき)」の中間の)左鎧(さぶみ)地区あたりの両岸に本当にたくさん咲いています。(見た目は清楚な紅紫色の花をつける岸ツツジですが、実は川べりの岩場、岩の割れ目に根をおろして育つ、見た目からは想像できない、かなりタフなツツジなんじゃ
。)【MAP:益田市の能登川と匹見川(高津川の支流)の接点周辺】
…野々峠(近くに丸山銅山跡、旧安養寺がある)もわかるよ

2009年05月14日
探訪丸山銅山跡 旧安養寺の歴史について
前回、丸山銅山の発見者は誰?ということで、山烏行淵さんを取り上げました。
今回は前回の続き、益田市美都町の丸山銅山跡で発見した旧安養寺跡…旧安養寺についてです。
旧安養寺は、実は、もともと益田市の遠田地区(上遠田)にあったようです。
益田市誌(昭和50年12月20日発行)の上巻の320~321ページによると
益田市誌(昭和50年12月20日発行)上巻
第四章 平安時代 第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
二 坂ノ上寔護の丸山赴任 安養寺の移転より引用
旧安養寺跡の画像です。

その他の旧安養寺跡の画像は以下の2つの投稿をご参照ください。
>>丸山銅山跡をめざして(旧安養寺跡)2009年05月06日
>>丸山銅山跡と旧安養寺跡、そして山烏行淵2009年05月09日
【MAP:Yahoo!の地図で益田市の上遠田という地名を探しました】
今回は前回の続き、益田市美都町の丸山銅山跡で発見した旧安養寺跡…旧安養寺についてです。
旧安養寺は、実は、もともと益田市の遠田地区(上遠田)にあったようです。
益田市誌(昭和50年12月20日発行)の上巻の320~321ページによると
安養寺の移転
丸山に移住した寔護は、郷里の菩提寺である安養寺が、遠くて参詣に不便であること、また同寺を繁栄させたいとの理由から、元慶元年(877年)山烏行淵に託して、同寺を上遠田から丸山へ移した。
当初は正福寺と寺名を改め、真言宗の末寺となった。そして行淵を住僧とし、寔護自身は大檀那となって保護を加えた。そこで行淵は鉱務を子の尚峯に譲り、寺の興隆に努めさせた。
正福寺は後年、元の安養寺に改められた。(中略)今日上遠田にある安養寺の地名を残すところがその址である。丸山大金に移転後の安養寺は、行淵の後、朝旨を受けて鉱務を掌った山烏尚峯が、住僧として後を継いだ。
益田市誌(昭和50年12月20日発行)上巻
第四章 平安時代 第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
二 坂ノ上寔護の丸山赴任 安養寺の移転より引用
旧安養寺跡の画像です。
その他の旧安養寺跡の画像は以下の2つの投稿をご参照ください。
>>丸山銅山跡をめざして(旧安養寺跡)2009年05月06日
>>丸山銅山跡と旧安養寺跡、そして山烏行淵2009年05月09日
【MAP:Yahoo!の地図で益田市の上遠田という地名を探しました】
2009年05月09日
丸山銅山跡と旧安養寺跡、そして山烏行淵
前回の益田市美都町の丸山銅山跡への探検で「旧安養寺跡」を発見(ただたどり着いただけですが)
丸山銅山跡入口から篠竹の薮、ぬかるんだ山道を歩くこと約7~8分。いきなり、かなり古いけど立派な石垣を発見しました。
>>丸山銅山跡をめざして(旧安養寺跡)2009年05月06日
下の画像をみてもお分かりのように、まるでジャングルの中の古代文明の遺跡のようで…丸山銅山跡にしても旧安養寺にしてもまだ画像等、益田市関連サイトでは公開されいないようです(多分ネ…)
だから、初めて目にしたときはマジで驚きました。(つーか、ネット上ではまたまた世界初公開かも
…あの「能登の大竜頭」に続いて2回目!?)
さて!そもそも(これまで何度か記述させていただきましたが)この丸山銅山が発見されたのは881年。それは『日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条に記述されているということでした。
ならば!この丸山銅山は一体誰が発見したのか?そしてこの旧安養寺が建てられた経緯は?
という疑問が湧く益田市の歴史愛好家も多くいるのではないかと思います

前回の「丸山銅山跡をめざして(旧安養寺跡)」のへんしゅう後記にも書いておきましたが、
実は、丸山銅山に関する2つの疑問の答えが、我らが益田市誌にあったのです。
益田市誌(昭和50年12月20日発行)の上巻の319ページ
第四章 平安時代
第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
より
一 都茂銅山の発見
に丸山銅山の発見と旧安養寺が建てられた経緯の記述がありました。
まず…①丸山銅山は誰が最初に発見したのか?についてですが、上記益田市誌によると、
山烏行淵という人物が発見者であるようです。それにしてもこの山烏行淵という人物、隋の煬帝の末裔…空海のお弟子さん…ビッグキーワードが絡んで…なかなか凄僧
それに、どこの古の鉱山たるもの…最初の発見はどんなプロセスがあるのか?(←これってものすごく不思議なんじゃが)
わし(益田市太郎説)が思うに、高津川をのぼり、匹見川に入り…そして能登川を登る……キーになる指標植物は(そう!)ヤマブキの花。ヤマブキの花をつたって
(まあこの説については後日あらためて)…実際匹見川から能登川にかけてはヤマブキがわんさか咲いておるんですョ
(ついでに…金属鉱床を探す指標植物で有名なのは金山草(かなやまそう)がありますぞ。)
②旧「安養寺」について
安養寺については益田市誌 上巻 320ページに「安養寺の移転」で記述されていました。
この旧安養寺については次回に…
【へんしゅう後記】
古(いにしえ)の人たちが、どうやって鉱山を発見したのか?これは大変興味深いテーマなんじゃが…そのノウハウの一つjには、特異な植物の分布がシグナル(目印)になることは周知のことです。もっとこのあたりの専門書を探していきたいと思います。(いい趣味じゃとわれながら思う)
また、丸山銅山を最初に発見した人物山烏行淵さんにも興味がわいた(…というか、師である空海さんも含め)仏教以外にも、いろいろな(当時)最新技術、ノウハウをもっておったんじゃろう。山師(鉱山技術者)という側面もあり、土木技術者としても…実に興味深い!
それにしても益田市(島根県の石見地方の歴史は思ったより深いし濃いぞ!…若干あせってきたシ
)
丸山銅山跡入口から篠竹の薮、ぬかるんだ山道を歩くこと約7~8分。いきなり、かなり古いけど立派な石垣を発見しました。
>>丸山銅山跡をめざして(旧安養寺跡)2009年05月06日
下の画像をみてもお分かりのように、まるでジャングルの中の古代文明の遺跡のようで…丸山銅山跡にしても旧安養寺にしてもまだ画像等、益田市関連サイトでは公開されいないようです(多分ネ…)
だから、初めて目にしたときはマジで驚きました。(つーか、ネット上ではまたまた世界初公開かも
…あの「能登の大竜頭」に続いて2回目!?)さて!そもそも(これまで何度か記述させていただきましたが)この丸山銅山が発見されたのは881年。それは『日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条に記述されているということでした。
ならば!この丸山銅山は一体誰が発見したのか?そしてこの旧安養寺が建てられた経緯は?
という疑問が湧く益田市の歴史愛好家も多くいるのではないかと思います

前回の「丸山銅山跡をめざして(旧安養寺跡)」のへんしゅう後記にも書いておきましたが、
実は、丸山銅山に関する2つの疑問の答えが、我らが益田市誌にあったのです。
益田市誌(昭和50年12月20日発行)の上巻の319ページ
第四章 平安時代
第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
より
一 都茂銅山の発見
に丸山銅山の発見と旧安養寺が建てられた経緯の記述がありました。
まず…①丸山銅山は誰が最初に発見したのか?についてですが、上記益田市誌によると、
旧記から考えてみると、この銅山の最初の発見者は、隋の煬帝(ようだい)の末裔、散位永岑の弟に当たる山烏行淵であった。彼は僧空海の弟子で、諸国遍歴の途上に石見を行脚し、丸山の地に銅鉱を発見したのである。これを兄永岑を通じ、朝廷に奏上した。※太字、赤字強調は益田市太郎による。
そして真髪部安雄が石見に赴く際、行淵は鉱務を掌るよう命じられた。
(益田市誌 上巻 319~320ページ)
山烏行淵という人物が発見者であるようです。それにしてもこの山烏行淵という人物、隋の煬帝の末裔…空海のお弟子さん…ビッグキーワードが絡んで…なかなか凄僧

それに、どこの古の鉱山たるもの…最初の発見はどんなプロセスがあるのか?(←これってものすごく不思議なんじゃが)
わし(益田市太郎説)が思うに、高津川をのぼり、匹見川に入り…そして能登川を登る……キーになる指標植物は(そう!)ヤマブキの花。ヤマブキの花をつたって
(まあこの説については後日あらためて)…実際匹見川から能登川にかけてはヤマブキがわんさか咲いておるんですョ
(ついでに…金属鉱床を探す指標植物で有名なのは金山草(かなやまそう)がありますぞ。)
②旧「安養寺」について
安養寺については益田市誌 上巻 320ページに「安養寺の移転」で記述されていました。
この旧安養寺については次回に…
【へんしゅう後記】
古(いにしえ)の人たちが、どうやって鉱山を発見したのか?これは大変興味深いテーマなんじゃが…そのノウハウの一つjには、特異な植物の分布がシグナル(目印)になることは周知のことです。もっとこのあたりの専門書を探していきたいと思います。(いい趣味じゃとわれながら思う)
また、丸山銅山を最初に発見した人物山烏行淵さんにも興味がわいた(…というか、師である空海さんも含め)仏教以外にも、いろいろな(当時)最新技術、ノウハウをもっておったんじゃろう。山師(鉱山技術者)という側面もあり、土木技術者としても…実に興味深い!
それにしても益田市(島根県の石見地方の歴史は思ったより深いし濃いぞ!…若干あせってきたシ
) 2009年05月06日
丸山銅山跡をめざして(旧安養寺跡)
益田市の佐毘売山神社から「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり」という史実のタイミングが島根県の世界遺産である石見銀山遺跡の歴史上どのような状況であったのかを調べてみました。
特に当時の石見銀山の銀の産出の状況を(銀の)精錬技術の歴史的推移という視点での仮説も試みてみました
>>益田市の佐毘売山神社と世界遺産「石見銀山」との関係2009年04月24日
>>石見銀山の銀の精錬の歴史を探る2009年05月01日
>>灰吹法導入以前の石見銀山の銀製錬は!?2009年05月04日
さて!今回は久しぶりに地元益田市ネタ、しかも益田市でのフィールドワーク(…ちなみに実施したのはこのゴールデン・ウィークより前なのですが)
2009年04月23日に投稿しました
>>丸山銅山跡とは…(都茂鉱山跡探訪シリーズ第4回)(益田市美都町)(このときは、恥ずかしながら途中断念しました
)
益田市美都町の丸山銅山跡への探検の続編です。(本当は今年の秋か冬を予定していたのですが)
やはり石見地方、特に地元益田市の忘れられた貴重な歴史の価値とそれを愛する数少ない益田市と全世界の歴史愛好家のために(笑)一念発起して、丸山銅山跡の探索に本格挑戦しました!
そして、進展!石による構築物を発見しました!

上記画像についての説明の前に(この現場までのお話を若干…
)
今回は、一応「草刈り鎌」も持参して、丸山銅山跡の杭看板より潜入を開始しました。

前回断念した不気味な倒木をのりこえ…

地図にも載っていないし、案内図(資料)もない…だから、ゴールである「丸山銅山跡」がどんな状態であるかわからない。その上とにかく、ぬかるみで足もとも悪く、おまけに道のほとんどは篠竹が覆いかぶさり前方がよく見えない…本当に探検している気分、しかも今回は一人…ハミ(蝮)も心配…要するに無謀なんですね
が、しかし!10分も進んでいくとこんな光景が
相当古いですが、見事な石垣です。

よくみると、

「旧安養寺跡」と!
安養寺といえば…益田市美都町山本地区でしだれ桜で有名なお寺…もともとここにあったのか…
石垣からは太い木がニョキっとはえとる…

津和野の城跡でも似た光景をみたんじゃが・・・このままでは、益田市の歴史上、否!日本の歴史上貴重な財産である「旧安養寺」の石垣は間違いなく崩壊するゾ!
という光景で今回のフィールドワークは終了…またしてもビビッて…つーか、このワシでもさすがに寂しくなった(笑)。
次回はさらに深く潜入しマスダ!
【へんしゅう後記】
益田市美都町の丸山銅山が発見されたのは881年ということは以前も報告しましたが…『日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条による。…でしたが、丸山銅山の歴史につては、なんと益田市誌に掲載されていました
次回は、益田市誌での丸山銅山の記述をもとにもう少し詳しい情報を益田市民に向けてご提供させていただきマスダ!
特に当時の石見銀山の銀の産出の状況を(銀の)精錬技術の歴史的推移という視点での仮説も試みてみました
>>益田市の佐毘売山神社と世界遺産「石見銀山」との関係2009年04月24日
>>石見銀山の銀の精錬の歴史を探る2009年05月01日
>>灰吹法導入以前の石見銀山の銀製錬は!?2009年05月04日
さて!今回は久しぶりに地元益田市ネタ、しかも益田市でのフィールドワーク(…ちなみに実施したのはこのゴールデン・ウィークより前なのですが)
2009年04月23日に投稿しました
>>丸山銅山跡とは…(都茂鉱山跡探訪シリーズ第4回)(益田市美都町)(このときは、恥ずかしながら途中断念しました
)益田市美都町の丸山銅山跡への探検の続編です。(本当は今年の秋か冬を予定していたのですが)
やはり石見地方、特に地元益田市の忘れられた貴重な歴史の価値とそれを愛する数少ない益田市と全世界の歴史愛好家のために(笑)一念発起して、丸山銅山跡の探索に本格挑戦しました!
そして、進展!石による構築物を発見しました!
上記画像についての説明の前に(この現場までのお話を若干…
)今回は、一応「草刈り鎌」も持参して、丸山銅山跡の杭看板より潜入を開始しました。
前回断念した不気味な倒木をのりこえ…
地図にも載っていないし、案内図(資料)もない…だから、ゴールである「丸山銅山跡」がどんな状態であるかわからない。その上とにかく、ぬかるみで足もとも悪く、おまけに道のほとんどは篠竹が覆いかぶさり前方がよく見えない…本当に探検している気分、しかも今回は一人…ハミ(蝮)も心配…要するに無謀なんですね

が、しかし!10分も進んでいくとこんな光景が

相当古いですが、見事な石垣です。
よくみると、
「旧安養寺跡」と!
安養寺といえば…益田市美都町山本地区でしだれ桜で有名なお寺…もともとここにあったのか…石垣からは太い木がニョキっとはえとる…
津和野の城跡でも似た光景をみたんじゃが・・・このままでは、益田市の歴史上、否!日本の歴史上貴重な財産である「旧安養寺」の石垣は間違いなく崩壊するゾ!

という光景で今回のフィールドワークは終了…またしてもビビッて…つーか、このワシでもさすがに寂しくなった(笑)。
次回はさらに深く潜入しマスダ!

【へんしゅう後記】
益田市美都町の丸山銅山が発見されたのは881年ということは以前も報告しましたが…『日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条による。…でしたが、丸山銅山の歴史につては、なんと益田市誌に掲載されていました

次回は、益田市誌での丸山銅山の記述をもとにもう少し詳しい情報を益田市民に向けてご提供させていただきマスダ!
2009年05月04日
灰吹法導入以前の石見銀山の銀製錬は!?
前回の投稿「石見銀山の銀の精錬の歴史を探る」につづいて今回は灰吹法(はいふき法)導入以前の石見銀山の銀製錬は!?…石見銀山で採掘された銀の鉱石の製錬について、灰吹法という精錬方法が導入される以前は「どこで」精錬をしていたのかについて調べてみました。
歴史的な流れを復習してみると、
島根県の大田市の世界遺産「石見銀山」。(正式には「石見銀山遺跡とその文化的景観」)が発見されたのは1309年 延慶2年 (「銀山旧記」による)鎌倉時代にあたります。
そして、益田市の佐毘売山神社より石見銀山(大田市)に分社されたのは康暦2年(1380年)となっています。
「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」
>>益田市の佐毘売山神社と世界遺産「石見銀山」との関係2009年04月24日
そして、当時としては画期的な銀の精錬法である灰吹法が石見銀山に導入されたのは、1533年(天文2年)
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり…
>>石見銀山の銀の精錬の歴史を探る2009年05月01日
つまり、14世紀初頭から16世紀の半ばまで、どのようにして銀を精錬していたのか…が今回のメインテーマになります。
では、「どこで精錬していたの?」となるわけですが、ここらあたりについて詳しい情報として「冶金の曙」というサイトがありました。
>>冶金の曙
そして石見銀山の銀の採掘と製錬技術について歴史的な流れがわかるページが「石見銀山@16世紀」
>>石見銀山@16世紀
によると、
①当初はなんと福石鉱床より自然銀…極端に言うと純度の高い銀が採れていた(だから、灰吹法のような精錬技術は当初の段階では必要がなかった…?)
※自然銀(ひげ銀)/銀黒/重晶石 W. D. Mine, Sagauche Co. Colorado, USAの画像も「石見銀山@16世紀」には掲載されています。
②(そして、)採掘しやすい福石鉱床の自然銀が枯渇すると…永久鉱床からの銀を期待するわけですが、そこで必要となるのが銀の「精錬技術」
そのあたりについても、同サイトより、
より、銀鉱石を「博多」まで運搬していたことがわかります。
ただし!『本城本銀山』には「大永六年(1526)」より「天文二年(1533)」の8年間です
。
ここまで来て言うのは変じゃが…石見銀山の銀を博多まで運搬したのはわずか8年間!となると、それまでは概ね自然銀のみ採掘していたと考えるべきなんじゃろうか?それとも、時期的に14世紀~16世紀は銀山周辺、いろいろ動乱が多くて落ち着いて採掘ができんかったとも考えられるのう…
これ以上は、今のわしの能力ではちょっと難しいので…しばらく調査期間を頂きたいと思いマスダ
偶然…というか、益田市の都茂鉱山から発展してきたテーマじゃが…石見銀山の初期は謎(秘密)が多いぞ!
ついでにもう一つ面白いのは、
灰吹法にひつような鉛(なまり)について、(石見銀山で採れたという説もあるが(同サイト内))鉛は益田市の都茂鉱山ではいっぱい取れたはずだから…この辺も面白いと思うぞ!
【銀の精錬…灰吹法(はいふきほう)】
ついでに、せっかくなんで、(何度も連発したキーワード)…石見銀山での銀の精錬法である灰吹法(はいふきほう)についてわかりやすいサイトを見つけました。
銀の精錬ー灰吹法(はいふきほう)ー
>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/technology/haifuki.html
銀の採掘から精錬までの技術
>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/technology/index.html
世界遺産 石見銀山遺跡とその文化的景観(>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/index.html)というサイトのコンテンツです。画像も多くわかりやすいぞ!
【おまけ画像…石見銀山「大久保間歩ツアー」での鉱山都市遺跡】

まるで、インカ帝国の遺跡を見ているようじゃった…こんなもんまで発見されてもまだ全体の数パーセントしか調査できていないという石見銀山!…ちょっと勉強してから行かんとあんまり価値がわからんのも石見銀山のいいところ(笑)じゃが…今後のもっと凄い発見に期待したおりマスダ!
【へんしゅう後記…現在の博多…YAHOO!DOMEで銀が降ってきた!】
さて予告通り
先週行ってきた福岡市
そしてやはり、あったぞ!銀!…

続きを読む
歴史的な流れを復習してみると、
島根県の大田市の世界遺産「石見銀山」。(正式には「石見銀山遺跡とその文化的景観」)が発見されたのは1309年 延慶2年 (「銀山旧記」による)鎌倉時代にあたります。
そして、益田市の佐毘売山神社より石見銀山(大田市)に分社されたのは康暦2年(1380年)となっています。
「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」
>>益田市の佐毘売山神社と世界遺産「石見銀山」との関係2009年04月24日
そして、当時としては画期的な銀の精錬法である灰吹法が石見銀山に導入されたのは、1533年(天文2年)
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり…
>>石見銀山の銀の精錬の歴史を探る2009年05月01日
つまり、14世紀初頭から16世紀の半ばまで、どのようにして銀を精錬していたのか…が今回のメインテーマになります。
では、「どこで精錬していたの?」となるわけですが、ここらあたりについて詳しい情報として「冶金の曙」というサイトがありました。
>>冶金の曙
そして石見銀山の銀の採掘と製錬技術について歴史的な流れがわかるページが「石見銀山@16世紀」
>>石見銀山@16世紀
によると、
①当初はなんと福石鉱床より自然銀…極端に言うと純度の高い銀が採れていた(だから、灰吹法のような精錬技術は当初の段階では必要がなかった…?)
※自然銀(ひげ銀)/銀黒/重晶石 W. D. Mine, Sagauche Co. Colorado, USAの画像も「石見銀山@16世紀」には掲載されています。
★ 石見銀山の銀鉱石
石見銀山には鉱石成分の異なる福石鉱床と永久鉱床という鉱床があるが、石見銀山の開発は福石鉱床から始まったと云われている。これは永久鉱床の鉱石が硫化銅鉱を多く含んでいて製錬がやっかいであったことと、鉱床の位置が福石鉱床よりも深いところにあったことから推定されているもののようだ。
石見銀山を見つけた人はそこにどのような露頭を見たのであろうか。一般的な露頭の鉱兆としては「焼け」と呼ばれる赭褐色に褐鉄鉱で色付いた表土が云われる。石見銀山においてもこのような所に自然銀を発見したのであろうか。
(中略)
「銀山旧記」には、延慶に大内氏、建武、延元の頃足利氏等、14世紀に銀山を開拓したとする記事があるが、このとき開発された銀山は永久鉱床の露頭ではなかろうか。永久鉱床とすれば表層部の銀の枯渇も早く、表層下部は当時まだ製錬対象なってなかった硫化銅鉱のため採掘を断念することになった とこのように見れば、第二次?石見銀山の開発まで大きく中断したことが理解でそうだ。(「石見銀山@16世紀」より引用 赤字強調は益田市太郎による)
②(そして、)採掘しやすい福石鉱床の自然銀が枯渇すると…永久鉱床からの銀を期待するわけですが、そこで必要となるのが銀の「精錬技術」
そのあたりについても、同サイトより、
『石見国銀山要集』の「銀山旧記」に「銀山銀吹の始なり」の記述と、神屋寿禎が石見銀山を開発した当初、鏈(くさり、鉱石)のまま搬出していたという記述がある(『本城本銀山』には「大永六年より天文二年に至る迄八ヶ年の間、銀[金当]皆博多へ運送せり、銀山にて吹分ける事未ダ無之」)
(「石見銀山@16世紀」より引用。※赤字強調は益田市太郎による)
より、銀鉱石を「博多」まで運搬していたことがわかります。
ただし!『本城本銀山』には「大永六年(1526)」より「天文二年(1533)」の8年間です
。ここまで来て言うのは変じゃが…石見銀山の銀を博多まで運搬したのはわずか8年間!となると、それまでは概ね自然銀のみ採掘していたと考えるべきなんじゃろうか?それとも、時期的に14世紀~16世紀は銀山周辺、いろいろ動乱が多くて落ち着いて採掘ができんかったとも考えられるのう…

これ以上は、今のわしの能力ではちょっと難しいので…しばらく調査期間を頂きたいと思いマスダ
偶然…というか、益田市の都茂鉱山から発展してきたテーマじゃが…石見銀山の初期は謎(秘密)が多いぞ!ついでにもう一つ面白いのは、
福石鉱床の鉱石には鉛鉱物が少ないことから灰吹法を行うには鉛を加える必要があるが、この鉛をどのように確保するのかという問題があったはずである。このことから、開発当初は鉛の確保の目処がつかなかったために鉱石のまま搬出したという可能性も考えられる。
灰吹法にひつような鉛(なまり)について、(石見銀山で採れたという説もあるが(同サイト内))鉛は益田市の都茂鉱山ではいっぱい取れたはずだから…この辺も面白いと思うぞ!

【銀の精錬…灰吹法(はいふきほう)】
ついでに、せっかくなんで、(何度も連発したキーワード)…石見銀山での銀の精錬法である灰吹法(はいふきほう)についてわかりやすいサイトを見つけました。
銀の精錬ー灰吹法(はいふきほう)ー
>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/technology/haifuki.html
銀の採掘から精錬までの技術
>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/technology/index.html
世界遺産 石見銀山遺跡とその文化的景観(>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/index.html)というサイトのコンテンツです。画像も多くわかりやすいぞ!
【おまけ画像…石見銀山「大久保間歩ツアー」での鉱山都市遺跡】
まるで、インカ帝国の遺跡を見ているようじゃった…こんなもんまで発見されてもまだ全体の数パーセントしか調査できていないという石見銀山!…ちょっと勉強してから行かんとあんまり価値がわからんのも石見銀山のいいところ(笑)じゃが…今後のもっと凄い発見に期待したおりマスダ!
【へんしゅう後記…現在の博多…YAHOO!DOMEで銀が降ってきた!】
さて予告通り
先週行ってきた福岡市そしてやはり、あったぞ!銀!…
続きを読む
2009年05月01日
石見銀山の銀の精錬の歴史を探る
前々回の投稿で、現在の世界遺産である島根県大田市の石見銀山(大森銀山)遺跡の佐毘売山神社は益田市の佐毘売山神社より「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」ということを述べました。
詳しくは>>益田市の佐毘売山神社と世界遺産「石見銀山」との関係2009年04月24日
この史実は、単に、石見銀山という新しい銀山発見による、その後の開発に先駆け、「金山彦命」(鉱山の神)をもってして、それを守護神パワーという表象的な「縁起」担ぎという意味だけではなく、
鉱山開発における「人材=ノウハウ」の供給を意味しているという説もあることもわかりました。
実は!今回のタイトル…「石見銀山の銀の精錬の歴史を探る」は
次回から2~3回で益田太郎の益田市の丸山銅山の歴史と益田氏に関する奇想天外仮説のための「布石」になるような内容となっておりマスダ…
石見銀山の発見と開発、そして銀の精錬(技術)は、(現在の石見銀山遺跡にある施設資料では、)「灰吹法」という当時としては画期的な銀の精錬技術がありました。(…これは、皆さんご存知ですね!
)
ここでポイントは「灰吹法」そのもののノウハウではなく、「灰吹法」が導入された時期(年号)なんです。
さて、ざっと、(いつものごとく)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)で調べたところ。
というところ。
そして石見銀山にて「灰吹法」確立、導入以前は、
という…「銀鉱石そのものを運搬、出荷していた」というところがポイントなんですね。
…益田市の佐毘売山神社より「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」の段階ではまだ、現地では銀の製錬はできていなかったわけです。(ちなみに銅は現地でも精錬ができていたことは想定できますね)
さて、灰吹法による石見銀山現地での精錬ができなかったころ(14世紀後半(1380年頃)から16世紀の半ば(1533年)までの約150年間は…銀鉱石を船に積んで運搬・出荷していた(上記ウィキペディアでは、「鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。」)という事になりそうですね…
すると必然的に「一体どこへ?
」って…疑問がわきませんか?(わしは非常に興味深いんじゃが…)
で、それも調べてみたら…なんと
遠く朝鮮半島の地名がでてきた。銀鉱石そのものを九州経由で朝鮮半島まで運んで精錬!?
コスト(手間)とリスク(海上運搬)を考えてみるとちょっとナンセンスじゃが!
…そういえば、石見銀山、大久保間歩ツワーでのボランティアのガイドさんもそんなことをおっしゃっておったのう
(余談じゃが…実はこの女性ガイドさんがヤマブキ説を教えてくれたんじゃ!
詳しくは>>ヤマブキの花と金運について(益田市万葉植物園にて)「2009年03月26日「山吹(ヤマブキ)がたくさん咲く場所には銀がある!」という伝承が…(事実、石見銀山の山には多いそうです)…をご参照ください。
次回はこの辺をもっと詳しく調べたものを紹介しましょう。
「灰吹法確立以前の石見銀山の銀の製錬はどこでおこなっていたか!(仮)」につづく…
【おまけ画像】
昨年の6月益田太郎とその仲間達が石見銀山の大久保間歩ツワーに急きょ(気まぐれで)参加した時の画像。
題名は…
「さあ、いよいよ、益田市太郎が世界遺産「石見銀山」の、あの「大久保間歩」にはいるぞ!」…です

画像左の銀のジャンバーの方が地元ガイドさん、作業着の方は遺跡管理の方、そして(背中)お二人はは当日ごいしょさせて頂きました関西方面から石見銀山観光にみえたというご夫婦です。
そして「益田市太郎が世界遺産「石見銀山」の、あの「大久保間歩」に入ったぞ!」…です

【へんしゅう後記】
また、ムゲに文章が長くなってしまいました。画像も去年の石見銀山で撮影したものをつかってしもうた…
…でも次回からは、先日の福岡遠征の画像付きで頑張りマスダ!(ちょっと久々にふざけるし…)
詳しくは>>益田市の佐毘売山神社と世界遺産「石見銀山」との関係2009年04月24日
この史実は、単に、石見銀山という新しい銀山発見による、その後の開発に先駆け、「金山彦命」(鉱山の神)をもってして、それを守護神パワーという表象的な「縁起」担ぎという意味だけではなく、
鉱山開発における「人材=ノウハウ」の供給を意味しているという説もあることもわかりました。
実は!今回のタイトル…「石見銀山の銀の精錬の歴史を探る」は
次回から2~3回で益田太郎の益田市の丸山銅山の歴史と益田氏に関する奇想天外仮説のための「布石」になるような内容となっておりマスダ…

石見銀山の発見と開発、そして銀の精錬(技術)は、(現在の石見銀山遺跡にある施設資料では、)「灰吹法」という当時としては画期的な銀の精錬技術がありました。(…これは、皆さんご存知ですね!
)ここでポイントは「灰吹法」そのもののノウハウではなく、「灰吹法」が導入された時期(年号)なんです。
さて、ざっと、(いつものごとく)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)で調べたところ。
石見銀山の発見と開発(赤字強調は益田市太郎による)
石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩のお告げにより銀を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の採掘がなされていたものと考えられているが、今日、石見銀山を本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞(姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている。
海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。
義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。
灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より引用
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり…
というところ。
そして石見銀山にて「灰吹法」確立、導入以前は、
灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。
という…「銀鉱石そのものを運搬、出荷していた」というところがポイントなんですね。
…益田市の佐毘売山神社より「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」の段階ではまだ、現地では銀の製錬はできていなかったわけです。(ちなみに銅は現地でも精錬ができていたことは想定できますね)
さて、灰吹法による石見銀山現地での精錬ができなかったころ(14世紀後半(1380年頃)から16世紀の半ば(1533年)までの約150年間は…銀鉱石を船に積んで運搬・出荷していた(上記ウィキペディアでは、「鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。」)という事になりそうですね…

すると必然的に「一体どこへ?
」って…疑問がわきませんか?(わしは非常に興味深いんじゃが…)で、それも調べてみたら…なんと
遠く朝鮮半島の地名がでてきた。銀鉱石そのものを九州経由で朝鮮半島まで運んで精錬!?コスト(手間)とリスク(海上運搬)を考えてみるとちょっとナンセンスじゃが!
…そういえば、石見銀山、大久保間歩ツワーでのボランティアのガイドさんもそんなことをおっしゃっておったのう
(余談じゃが…実はこの女性ガイドさんがヤマブキ説を教えてくれたんじゃ!
詳しくは>>ヤマブキの花と金運について(益田市万葉植物園にて)「2009年03月26日「山吹(ヤマブキ)がたくさん咲く場所には銀がある!」という伝承が…(事実、石見銀山の山には多いそうです)…をご参照ください。

次回はこの辺をもっと詳しく調べたものを紹介しましょう。
「灰吹法確立以前の石見銀山の銀の製錬はどこでおこなっていたか!(仮)」につづく…
【おまけ画像】
昨年の6月益田太郎とその仲間達が石見銀山の大久保間歩ツワーに急きょ(気まぐれで)参加した時の画像。
題名は…
「さあ、いよいよ、益田市太郎が世界遺産「石見銀山」の、あの「大久保間歩」にはいるぞ!」…です

画像左の銀のジャンバーの方が地元ガイドさん、作業着の方は遺跡管理の方、そして(背中)お二人はは当日ごいしょさせて頂きました関西方面から石見銀山観光にみえたというご夫婦です。
そして「益田市太郎が世界遺産「石見銀山」の、あの「大久保間歩」に入ったぞ!」…です

【へんしゅう後記】
また、ムゲに文章が長くなってしまいました。画像も去年の石見銀山で撮影したものをつかってしもうた…
…でも次回からは、先日の福岡遠征の画像付きで頑張りマスダ!(ちょっと久々にふざけるし…)



