2009年05月04日
灰吹法導入以前の石見銀山の銀製錬は!?
前回の投稿「石見銀山の銀の精錬の歴史を探る」につづいて今回は灰吹法(はいふき法)導入以前の石見銀山の銀製錬は!?…石見銀山で採掘された銀の鉱石の製錬について、灰吹法という精錬方法が導入される以前は「どこで」精錬をしていたのかについて調べてみました。
歴史的な流れを復習してみると、
島根県の大田市の世界遺産「石見銀山」。(正式には「石見銀山遺跡とその文化的景観」)が発見されたのは1309年 延慶2年 (「銀山旧記」による)鎌倉時代にあたります。
そして、益田市の佐毘売山神社より石見銀山(大田市)に分社されたのは康暦2年(1380年)となっています。
「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」
>>益田市の佐毘売山神社と世界遺産「石見銀山」との関係2009年04月24日
そして、当時としては画期的な銀の精錬法である灰吹法が石見銀山に導入されたのは、1533年(天文2年)
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり…
>>石見銀山の銀の精錬の歴史を探る2009年05月01日
つまり、14世紀初頭から16世紀の半ばまで、どのようにして銀を精錬していたのか…が今回のメインテーマになります。
では、「どこで精錬していたの?」となるわけですが、ここらあたりについて詳しい情報として「冶金の曙」というサイトがありました。
>>冶金の曙
そして石見銀山の銀の採掘と製錬技術について歴史的な流れがわかるページが「石見銀山@16世紀」
>>石見銀山@16世紀
によると、
①当初はなんと福石鉱床より自然銀…極端に言うと純度の高い銀が採れていた(だから、灰吹法のような精錬技術は当初の段階では必要がなかった…?)
※自然銀(ひげ銀)/銀黒/重晶石 W. D. Mine, Sagauche Co. Colorado, USAの画像も「石見銀山@16世紀」には掲載されています。
②(そして、)採掘しやすい福石鉱床の自然銀が枯渇すると…永久鉱床からの銀を期待するわけですが、そこで必要となるのが銀の「精錬技術」
そのあたりについても、同サイトより、
より、銀鉱石を「博多」まで運搬していたことがわかります。
ただし!『本城本銀山』には「大永六年(1526)」より「天文二年(1533)」の8年間です
。
ここまで来て言うのは変じゃが…石見銀山の銀を博多まで運搬したのはわずか8年間!となると、それまでは概ね自然銀のみ採掘していたと考えるべきなんじゃろうか?それとも、時期的に14世紀~16世紀は銀山周辺、いろいろ動乱が多くて落ち着いて採掘ができんかったとも考えられるのう…
これ以上は、今のわしの能力ではちょっと難しいので…しばらく調査期間を頂きたいと思いマスダ
偶然…というか、益田市の都茂鉱山から発展してきたテーマじゃが…石見銀山の初期は謎(秘密)が多いぞ!
ついでにもう一つ面白いのは、
灰吹法にひつような鉛(なまり)について、(石見銀山で採れたという説もあるが(同サイト内))鉛は益田市の都茂鉱山ではいっぱい取れたはずだから…この辺も面白いと思うぞ!
【銀の精錬…灰吹法(はいふきほう)】
ついでに、せっかくなんで、(何度も連発したキーワード)…石見銀山での銀の精錬法である灰吹法(はいふきほう)についてわかりやすいサイトを見つけました。
銀の精錬ー灰吹法(はいふきほう)ー
>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/technology/haifuki.html
銀の採掘から精錬までの技術
>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/technology/index.html
世界遺産 石見銀山遺跡とその文化的景観(>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/index.html)というサイトのコンテンツです。画像も多くわかりやすいぞ!
【おまけ画像…石見銀山「大久保間歩ツアー」での鉱山都市遺跡】

まるで、インカ帝国の遺跡を見ているようじゃった…こんなもんまで発見されてもまだ全体の数パーセントしか調査できていないという石見銀山!…ちょっと勉強してから行かんとあんまり価値がわからんのも石見銀山のいいところ(笑)じゃが…今後のもっと凄い発見に期待したおりマスダ!
【へんしゅう後記…現在の博多…YAHOO!DOMEで銀が降ってきた!】
さて予告通り
先週行ってきた福岡市
そしてやはり、あったぞ!銀!…

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歴史的な流れを復習してみると、
島根県の大田市の世界遺産「石見銀山」。(正式には「石見銀山遺跡とその文化的景観」)が発見されたのは1309年 延慶2年 (「銀山旧記」による)鎌倉時代にあたります。
そして、益田市の佐毘売山神社より石見銀山(大田市)に分社されたのは康暦2年(1380年)となっています。
「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」
>>益田市の佐毘売山神社と世界遺産「石見銀山」との関係2009年04月24日
そして、当時としては画期的な銀の精錬法である灰吹法が石見銀山に導入されたのは、1533年(天文2年)
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり…
>>石見銀山の銀の精錬の歴史を探る2009年05月01日
つまり、14世紀初頭から16世紀の半ばまで、どのようにして銀を精錬していたのか…が今回のメインテーマになります。
では、「どこで精錬していたの?」となるわけですが、ここらあたりについて詳しい情報として「冶金の曙」というサイトがありました。
>>冶金の曙
そして石見銀山の銀の採掘と製錬技術について歴史的な流れがわかるページが「石見銀山@16世紀」
>>石見銀山@16世紀
によると、
①当初はなんと福石鉱床より自然銀…極端に言うと純度の高い銀が採れていた(だから、灰吹法のような精錬技術は当初の段階では必要がなかった…?)
※自然銀(ひげ銀)/銀黒/重晶石 W. D. Mine, Sagauche Co. Colorado, USAの画像も「石見銀山@16世紀」には掲載されています。
★ 石見銀山の銀鉱石
石見銀山には鉱石成分の異なる福石鉱床と永久鉱床という鉱床があるが、石見銀山の開発は福石鉱床から始まったと云われている。これは永久鉱床の鉱石が硫化銅鉱を多く含んでいて製錬がやっかいであったことと、鉱床の位置が福石鉱床よりも深いところにあったことから推定されているもののようだ。
石見銀山を見つけた人はそこにどのような露頭を見たのであろうか。一般的な露頭の鉱兆としては「焼け」と呼ばれる赭褐色に褐鉄鉱で色付いた表土が云われる。石見銀山においてもこのような所に自然銀を発見したのであろうか。
(中略)
「銀山旧記」には、延慶に大内氏、建武、延元の頃足利氏等、14世紀に銀山を開拓したとする記事があるが、このとき開発された銀山は永久鉱床の露頭ではなかろうか。永久鉱床とすれば表層部の銀の枯渇も早く、表層下部は当時まだ製錬対象なってなかった硫化銅鉱のため採掘を断念することになった とこのように見れば、第二次?石見銀山の開発まで大きく中断したことが理解でそうだ。(「石見銀山@16世紀」より引用 赤字強調は益田市太郎による)
②(そして、)採掘しやすい福石鉱床の自然銀が枯渇すると…永久鉱床からの銀を期待するわけですが、そこで必要となるのが銀の「精錬技術」
そのあたりについても、同サイトより、
『石見国銀山要集』の「銀山旧記」に「銀山銀吹の始なり」の記述と、神屋寿禎が石見銀山を開発した当初、鏈(くさり、鉱石)のまま搬出していたという記述がある(『本城本銀山』には「大永六年より天文二年に至る迄八ヶ年の間、銀[金当]皆博多へ運送せり、銀山にて吹分ける事未ダ無之」)
(「石見銀山@16世紀」より引用。※赤字強調は益田市太郎による)
より、銀鉱石を「博多」まで運搬していたことがわかります。
ただし!『本城本銀山』には「大永六年(1526)」より「天文二年(1533)」の8年間です
。ここまで来て言うのは変じゃが…石見銀山の銀を博多まで運搬したのはわずか8年間!となると、それまでは概ね自然銀のみ採掘していたと考えるべきなんじゃろうか?それとも、時期的に14世紀~16世紀は銀山周辺、いろいろ動乱が多くて落ち着いて採掘ができんかったとも考えられるのう…

これ以上は、今のわしの能力ではちょっと難しいので…しばらく調査期間を頂きたいと思いマスダ
偶然…というか、益田市の都茂鉱山から発展してきたテーマじゃが…石見銀山の初期は謎(秘密)が多いぞ!ついでにもう一つ面白いのは、
福石鉱床の鉱石には鉛鉱物が少ないことから灰吹法を行うには鉛を加える必要があるが、この鉛をどのように確保するのかという問題があったはずである。このことから、開発当初は鉛の確保の目処がつかなかったために鉱石のまま搬出したという可能性も考えられる。
灰吹法にひつような鉛(なまり)について、(石見銀山で採れたという説もあるが(同サイト内))鉛は益田市の都茂鉱山ではいっぱい取れたはずだから…この辺も面白いと思うぞ!

【銀の精錬…灰吹法(はいふきほう)】
ついでに、せっかくなんで、(何度も連発したキーワード)…石見銀山での銀の精錬法である灰吹法(はいふきほう)についてわかりやすいサイトを見つけました。
銀の精錬ー灰吹法(はいふきほう)ー
>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/technology/haifuki.html
銀の採掘から精錬までの技術
>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/technology/index.html
世界遺産 石見銀山遺跡とその文化的景観(>>http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/index.html)というサイトのコンテンツです。画像も多くわかりやすいぞ!
【おまけ画像…石見銀山「大久保間歩ツアー」での鉱山都市遺跡】
まるで、インカ帝国の遺跡を見ているようじゃった…こんなもんまで発見されてもまだ全体の数パーセントしか調査できていないという石見銀山!…ちょっと勉強してから行かんとあんまり価値がわからんのも石見銀山のいいところ(笑)じゃが…今後のもっと凄い発見に期待したおりマスダ!
【へんしゅう後記…現在の博多…YAHOO!DOMEで銀が降ってきた!】
さて予告通り
先週行ってきた福岡市そしてやはり、あったぞ!銀!…
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2009年05月01日
石見銀山の銀の精錬の歴史を探る
前々回の投稿で、現在の世界遺産である島根県大田市の石見銀山(大森銀山)遺跡の佐毘売山神社は益田市の佐毘売山神社より「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」ということを述べました。
詳しくは>>益田市の佐毘売山神社と世界遺産「石見銀山」との関係2009年04月24日
この史実は、単に、石見銀山という新しい銀山発見による、その後の開発に先駆け、「金山彦命」(鉱山の神)をもってして、それを守護神パワーという表象的な「縁起」担ぎという意味だけではなく、
鉱山開発における「人材=ノウハウ」の供給を意味しているという説もあることもわかりました。
実は!今回のタイトル…「石見銀山の銀の精錬の歴史を探る」は
次回から2~3回で益田太郎の益田市の丸山銅山の歴史と益田氏に関する奇想天外仮説のための「布石」になるような内容となっておりマスダ…
石見銀山の発見と開発、そして銀の精錬(技術)は、(現在の石見銀山遺跡にある施設資料では、)「灰吹法」という当時としては画期的な銀の精錬技術がありました。(…これは、皆さんご存知ですね!
)
ここでポイントは「灰吹法」そのもののノウハウではなく、「灰吹法」が導入された時期(年号)なんです。
さて、ざっと、(いつものごとく)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)で調べたところ。
というところ。
そして石見銀山にて「灰吹法」確立、導入以前は、
という…「銀鉱石そのものを運搬、出荷していた」というところがポイントなんですね。
…益田市の佐毘売山神社より「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」の段階ではまだ、現地では銀の製錬はできていなかったわけです。(ちなみに銅は現地でも精錬ができていたことは想定できますね)
さて、灰吹法による石見銀山現地での精錬ができなかったころ(14世紀後半(1380年頃)から16世紀の半ば(1533年)までの約150年間は…銀鉱石を船に積んで運搬・出荷していた(上記ウィキペディアでは、「鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。」)という事になりそうですね…
すると必然的に「一体どこへ?
」って…疑問がわきませんか?(わしは非常に興味深いんじゃが…)
で、それも調べてみたら…なんと
遠く朝鮮半島の地名がでてきた。銀鉱石そのものを九州経由で朝鮮半島まで運んで精錬!?
コスト(手間)とリスク(海上運搬)を考えてみるとちょっとナンセンスじゃが!
…そういえば、石見銀山、大久保間歩ツワーでのボランティアのガイドさんもそんなことをおっしゃっておったのう
(余談じゃが…実はこの女性ガイドさんがヤマブキ説を教えてくれたんじゃ!
詳しくは>>ヤマブキの花と金運について(益田市万葉植物園にて)「2009年03月26日「山吹(ヤマブキ)がたくさん咲く場所には銀がある!」という伝承が…(事実、石見銀山の山には多いそうです)…をご参照ください。
次回はこの辺をもっと詳しく調べたものを紹介しましょう。
「灰吹法確立以前の石見銀山の銀の製錬はどこでおこなっていたか!(仮)」につづく…
【おまけ画像】
昨年の6月益田太郎とその仲間達が石見銀山の大久保間歩ツワーに急きょ(気まぐれで)参加した時の画像。
題名は…
「さあ、いよいよ、益田市太郎が世界遺産「石見銀山」の、あの「大久保間歩」にはいるぞ!」…です

画像左の銀のジャンバーの方が地元ガイドさん、作業着の方は遺跡管理の方、そして(背中)お二人はは当日ごいしょさせて頂きました関西方面から石見銀山観光にみえたというご夫婦です。
そして「益田市太郎が世界遺産「石見銀山」の、あの「大久保間歩」に入ったぞ!」…です

【へんしゅう後記】
また、ムゲに文章が長くなってしまいました。画像も去年の石見銀山で撮影したものをつかってしもうた…
…でも次回からは、先日の福岡遠征の画像付きで頑張りマスダ!(ちょっと久々にふざけるし…)
詳しくは>>益田市の佐毘売山神社と世界遺産「石見銀山」との関係2009年04月24日
この史実は、単に、石見銀山という新しい銀山発見による、その後の開発に先駆け、「金山彦命」(鉱山の神)をもってして、それを守護神パワーという表象的な「縁起」担ぎという意味だけではなく、
鉱山開発における「人材=ノウハウ」の供給を意味しているという説もあることもわかりました。
実は!今回のタイトル…「石見銀山の銀の精錬の歴史を探る」は
次回から2~3回で益田太郎の益田市の丸山銅山の歴史と益田氏に関する奇想天外仮説のための「布石」になるような内容となっておりマスダ…

石見銀山の発見と開発、そして銀の精錬(技術)は、(現在の石見銀山遺跡にある施設資料では、)「灰吹法」という当時としては画期的な銀の精錬技術がありました。(…これは、皆さんご存知ですね!
)ここでポイントは「灰吹法」そのもののノウハウではなく、「灰吹法」が導入された時期(年号)なんです。
さて、ざっと、(いつものごとく)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)で調べたところ。
石見銀山の発見と開発(赤字強調は益田市太郎による)
石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩のお告げにより銀を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の採掘がなされていたものと考えられているが、今日、石見銀山を本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞(姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている。
海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。
義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。
灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より引用
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり…
というところ。
そして石見銀山にて「灰吹法」確立、導入以前は、
灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。
という…「銀鉱石そのものを運搬、出荷していた」というところがポイントなんですね。
…益田市の佐毘売山神社より「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」の段階ではまだ、現地では銀の製錬はできていなかったわけです。(ちなみに銅は現地でも精錬ができていたことは想定できますね)
さて、灰吹法による石見銀山現地での精錬ができなかったころ(14世紀後半(1380年頃)から16世紀の半ば(1533年)までの約150年間は…銀鉱石を船に積んで運搬・出荷していた(上記ウィキペディアでは、「鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。」)という事になりそうですね…

すると必然的に「一体どこへ?
」って…疑問がわきませんか?(わしは非常に興味深いんじゃが…)で、それも調べてみたら…なんと
遠く朝鮮半島の地名がでてきた。銀鉱石そのものを九州経由で朝鮮半島まで運んで精錬!?コスト(手間)とリスク(海上運搬)を考えてみるとちょっとナンセンスじゃが!
…そういえば、石見銀山、大久保間歩ツワーでのボランティアのガイドさんもそんなことをおっしゃっておったのう
(余談じゃが…実はこの女性ガイドさんがヤマブキ説を教えてくれたんじゃ!
詳しくは>>ヤマブキの花と金運について(益田市万葉植物園にて)「2009年03月26日「山吹(ヤマブキ)がたくさん咲く場所には銀がある!」という伝承が…(事実、石見銀山の山には多いそうです)…をご参照ください。

次回はこの辺をもっと詳しく調べたものを紹介しましょう。
「灰吹法確立以前の石見銀山の銀の製錬はどこでおこなっていたか!(仮)」につづく…
【おまけ画像】
昨年の6月益田太郎とその仲間達が石見銀山の大久保間歩ツワーに急きょ(気まぐれで)参加した時の画像。
題名は…
「さあ、いよいよ、益田市太郎が世界遺産「石見銀山」の、あの「大久保間歩」にはいるぞ!」…です

画像左の銀のジャンバーの方が地元ガイドさん、作業着の方は遺跡管理の方、そして(背中)お二人はは当日ごいしょさせて頂きました関西方面から石見銀山観光にみえたというご夫婦です。
そして「益田市太郎が世界遺産「石見銀山」の、あの「大久保間歩」に入ったぞ!」…です

【へんしゅう後記】
また、ムゲに文章が長くなってしまいました。画像も去年の石見銀山で撮影したものをつかってしもうた…
…でも次回からは、先日の福岡遠征の画像付きで頑張りマスダ!(ちょっと久々にふざけるし…)



