2010年01月02日
米原恭庵の「自信」と「勇気」に学ぶ(益田市 染羽天石勝神社)
元旦の昨日、益田市の柿本神社での初詣で、益田市民の行列におどろきつつ、その後、益田市の染羽町にある染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ)にも行ってみよう!ということになりました。染羽天石勝神社に初詣に行くのも益田市太郎初の経験です。
で益田市の染羽天石勝神社については後日、改めて詳しくご紹介するとして…この日、染羽天石勝神社にて私は地元 益田市にかかわる偉大な人物を知ることになりました。
その人の名前は「米原恭庵」といいます。皆さんご存知でしたか!?
江戸時代の医師で、嘉永二年(1849年)、彼が二十一歳のときに高角村(現高津町)で流行したという痘瘡(天然痘)に対し(柿の資料から判断して、おそらく日本人として初めて)牛痘を施し、その被害を抑えたという方です。
まずは、社団法人 益田市医師会による米原恭庵頌徳碑(よねはらきょうあん しょうとくひ)です。

米原恭庵頌徳碑(よねはらきょうあん しょうとくひ)
米原恭庵は若くして医学を志し、十七歳で江戸に上り西洋法内外科及び牛痘種法等を修学。二十一歳のとき当時の高角村(現高津町)で痘瘡(天然痘)が流行したため、私財を投じて五百余名の地元民に牛痘を施し、大成功を収めこの災疫から救った。
ジェンナーの種痘法後五十年を経た嘉永二年(1849年)7月17日に、オランダのモーニッケが長崎で日本初の牛痘接種に成功しているが、そのわずか二ヵ月後に僻地に住む恭庵が新しい種痘法を実施したことになる。
益田医師会は、全国に先駆け牛痘接種を断行し、防疫に貢献した米原恭庵翁の功績をたたえ遺徳を敬仰し頌徳碑を建立した。
右側後方の碑は恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる種痘記念碑である。
社団法人 益田市医師会
(※赤文字強調は益田市太郎による)
ちなみに、「右側後方の碑は恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる種痘記念碑である。」はこちらです。

私が米原恭庵さんに感じたのは(牛痘接種は)当時の段階ではおそらく「効果がわかかっていても、それ(新しいこと)を実行(行動)するには相当な「自信」と「勇気」があったのだろうな」ということです。
今年の私のテーマの一つになりうそうです。
この元日に益田市の染羽天石勝神社で米原恭庵さんの偉業をしることとなり大変感謝しています
【用語】
頌徳(しょうとく)⇒徳をたたえること。(YAHOO!JAPAN辞書より)
嘉永2年:「嘉永」は江戸時代徳川幕府時代の元号。ちなみにその4年後の嘉永6年(1853年) アメリカの東インド艦隊率いるペリー提督の来航があったといえば時代の雰囲気はお分かり頂けるでしょうか!?
ジェンナーについては以下ご参照
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
(※赤文字強調は益田市太郎による)
本題とはそれますが・・・ピンクの文字のところについてジェンナーといえば小学校のころに読んだ「わが子の腕に…」という超インパクトのあるキャッチコピーによる記憶があったのですが・・・「1796年5月14日、ジェームズ・フィップス(w:James Phipps)という8歳の少年に牛痘を接種した。少年は若干の発熱と不快感を訴えたがその程度にとどまり、深刻な症状はなかった。6週間後にジェンナーは少年に天然痘を接種したが少年は天然痘にはかからず、牛痘による天然痘予防法が成功した。一部の伝記や偉人伝等では「自分の息子に試した」「フィップスはジェンナーの実の息子」と記述されている場合があるが、自分の息子に試したのは、この牛痘接種の7年前の天然痘接種であり、混同して言い伝えられているものである。」という事だったようです。…ジェンナーの業績からして、誰の腕で実験しようと(いい意味で)どうでもイイことなんですけど
【MAP:染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ)(益田市染羽町)】
マップトラバもしておきます。
で益田市の染羽天石勝神社については後日、改めて詳しくご紹介するとして…この日、染羽天石勝神社にて私は地元 益田市にかかわる偉大な人物を知ることになりました。
その人の名前は「米原恭庵」といいます。皆さんご存知でしたか!?
江戸時代の医師で、嘉永二年(1849年)、彼が二十一歳のときに高角村(現高津町)で流行したという痘瘡(天然痘)に対し(柿の資料から判断して、おそらく日本人として初めて)牛痘を施し、その被害を抑えたという方です。
まずは、社団法人 益田市医師会による米原恭庵頌徳碑(よねはらきょうあん しょうとくひ)です。
米原恭庵頌徳碑(よねはらきょうあん しょうとくひ)
米原恭庵は若くして医学を志し、十七歳で江戸に上り西洋法内外科及び牛痘種法等を修学。二十一歳のとき当時の高角村(現高津町)で痘瘡(天然痘)が流行したため、私財を投じて五百余名の地元民に牛痘を施し、大成功を収めこの災疫から救った。
ジェンナーの種痘法後五十年を経た嘉永二年(1849年)7月17日に、オランダのモーニッケが長崎で日本初の牛痘接種に成功しているが、そのわずか二ヵ月後に僻地に住む恭庵が新しい種痘法を実施したことになる。
益田医師会は、全国に先駆け牛痘接種を断行し、防疫に貢献した米原恭庵翁の功績をたたえ遺徳を敬仰し頌徳碑を建立した。
右側後方の碑は恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる種痘記念碑である。
社団法人 益田市医師会
(※赤文字強調は益田市太郎による)
ちなみに、「右側後方の碑は恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる種痘記念碑である。」はこちらです。
私が米原恭庵さんに感じたのは(牛痘接種は)当時の段階ではおそらく「効果がわかかっていても、それ(新しいこと)を実行(行動)するには相当な「自信」と「勇気」があったのだろうな」ということです。
今年の私のテーマの一つになりうそうです。
この元日に益田市の染羽天石勝神社で米原恭庵さんの偉業をしることとなり大変感謝しています

【用語】
頌徳(しょうとく)⇒徳をたたえること。(YAHOO!JAPAN辞書より)
嘉永2年:「嘉永」は江戸時代徳川幕府時代の元号。ちなみにその4年後の嘉永6年(1853年) アメリカの東インド艦隊率いるペリー提督の来航があったといえば時代の雰囲気はお分かり頂けるでしょうか!?
ジェンナーについては以下ご参照
エドワード・ジェンナー(Edward Jenner、1749年5月17日 - 1823年1月26日)は、イギリスの医学者。天然痘ワクチンを開発したことで知られる。
この時代、イギリスでは天然痘はしばしば流行していた。これに対する予防法としては18世紀初頭に、天然痘患者の膿疱から抽出した液を健康な人間に接種するという方法がアラブ世界からもたらされたが、この予防法では接種を受けた者の2パーセントは重症化して死亡するなど、危険を伴うものであった。
ジェンナーが医師として活動していた頃には、牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないという農民の言い伝えがあった 。天然痘に比べると、牛痘ははるかに安全な病気であった。ジェンナーはこれが天然痘の予防に使えないかと、1778年から18年にわたって研究を続け、1796年5月14日、ジェームズ・フィップス(w:James Phipps)という8歳の少年に牛痘を接種した。少年は若干の発熱と不快感を訴えたがその程度にとどまり、深刻な症状はなかった。6週間後にジェンナーは少年に天然痘を接種したが少年は天然痘にはかからず、牛痘による天然痘予防法が成功した。一部の伝記や偉人伝等では「自分の息子に試した」「フィップスはジェンナーの実の息子」と記述されている場合があるが、自分の息子に試したのは、この牛痘接種の7年前の天然痘接種であり、混同して言い伝えられているものである。
1798年、これを発表し、その後、種痘法はヨーロッパ中にひろまり1802年、イギリス議会より賞金が贈られたが医学界はこの名誉をなかなか認めなかった。また一部の町村では、牛痘を接種すると牛になると言われて苦労したが、接種を「神の乗った牛の聖なる液」と説明したと言われる。しかしその後の天然痘の大流行を機にジェンナーの種痘法は急速に普及し、彼は「近代免疫学の父」と呼ばれるようになった。その後天然痘ワクチンは改良されて世界で使われ、1980年には天然痘の根絶が宣言された。
鳥の習性にも造詣が深く、カッコウの托卵や鳥の渡りを研究した事でも知られている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
(※赤文字強調は益田市太郎による)
本題とはそれますが・・・ピンクの文字のところについてジェンナーといえば小学校のころに読んだ「わが子の腕に…」という超インパクトのあるキャッチコピーによる記憶があったのですが・・・「1796年5月14日、ジェームズ・フィップス(w:James Phipps)という8歳の少年に牛痘を接種した。少年は若干の発熱と不快感を訴えたがその程度にとどまり、深刻な症状はなかった。6週間後にジェンナーは少年に天然痘を接種したが少年は天然痘にはかからず、牛痘による天然痘予防法が成功した。一部の伝記や偉人伝等では「自分の息子に試した」「フィップスはジェンナーの実の息子」と記述されている場合があるが、自分の息子に試したのは、この牛痘接種の7年前の天然痘接種であり、混同して言い伝えられているものである。」という事だったようです。…ジェンナーの業績からして、誰の腕で実験しようと(いい意味で)どうでもイイことなんですけど

【MAP:染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ)(益田市染羽町)】
マップトラバもしておきます。
2009年12月27日
益田越中守兼堯の像の視線を追う(益田市七尾町)
今回は久しぶりに益田市の話題。益田市の偉人・有名人として益田兼堯(ますだ かねたか)に関する話題。
益田兼堯(ますだ かねたか)といえば雪舟による益田兼堯像が有名です。(以前も取り上げましたが)この雪舟筆 「益田兼堯像」は益田市の市立 雪舟の郷記念館に収蔵されているということですが、なぜか、なかなかタイミングが合わず未だに鑑賞することができていません
そんな益田市太郎の愚痴
をある人に伝えたら
「銅像ならいつでも見れるぞ!」
ということで場所を聞いて
早速見に行ってきました。
場所は益田市七尾町の妙義寺の(道をはさんだ)正面におられました。


この像…自信ありげな表情に頼りがいを感じませんか?
益田兼堯さんはどこを見つめ何を思っておられるのでしょうか…
台座には益田越中守兼堯公像と
(この文字はかつての衆議院議長 桜内義雄氏によるものです)
越中守とはどのような役職?名なのでしょうか…結構調べたんですが未だに解明できていません。
横には益田兼堯に関する益田市観光協会による説明文があります。内容はよさそうなのですが…

黒御影で読むのにマジ疲れる
ので得意の(笑)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用させていただきました。
益田 兼堯(ますだ かねたか、? - 文明17年(1485年))。は、室町時代後期の人物。石見の国人領主益田氏当主で第15代益田城城主。益田兼理の子。益田常兼の弟。益田貞兼、女子(陶弘護妻)の父。越中守。
永享3年(1431年)、父と兄が大内盛見に従い九州の少弐氏、大友氏と戦い、盛見と共に戦死したため家督を継いだ。以来、益田氏の当主を長期にわたって務め、大内氏のみならず幕府とも直接、誼を通じ、それぞれの戦いで着実に戦功を積み勢力を拡大させた。応仁の乱の際は大内氏に従い西軍に属し、文明2年(1470年) 大内教幸(道頓)の反乱の際には、女婿の弘護を支援し石見の有力国人の吉見信頼らを制圧した。その一方で、東軍の細川氏とも通じていたとされる。晩年は子の貞兼に家督を譲って隠居した。
雪舟と親交があったと伝えられており、彼が描いた兼堯像は国の重要文化財に指定されている。
【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用】
この『ウィキペディア(Wikipedia)』の内容だけでも益田氏や益田 兼堯(ますだ かねたか)には随分興味がそそられるものがありますね
【MAP:益田越中守兼堯公像のある場所(益田市七尾町)】
※マップトラバもしておきます。
益田兼堯(ますだ かねたか)といえば雪舟による益田兼堯像が有名です。(以前も取り上げましたが)この雪舟筆 「益田兼堯像」は益田市の市立 雪舟の郷記念館に収蔵されているということですが、なぜか、なかなかタイミングが合わず未だに鑑賞することができていません

そんな益田市太郎の愚痴
をある人に伝えたら「銅像ならいつでも見れるぞ!」
ということで場所を聞いて
早速見に行ってきました。場所は益田市七尾町の妙義寺の(道をはさんだ)正面におられました。
この像…自信ありげな表情に頼りがいを感じませんか?
益田兼堯さんはどこを見つめ何を思っておられるのでしょうか…
台座には益田越中守兼堯公像と
(この文字はかつての衆議院議長 桜内義雄氏によるものです)
越中守とはどのような役職?名なのでしょうか…結構調べたんですが未だに解明できていません。
横には益田兼堯に関する益田市観光協会による説明文があります。内容はよさそうなのですが…
黒御影で読むのにマジ疲れる
ので得意の(笑)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用させていただきました。益田 兼堯(ますだ かねたか、? - 文明17年(1485年))。は、室町時代後期の人物。石見の国人領主益田氏当主で第15代益田城城主。益田兼理の子。益田常兼の弟。益田貞兼、女子(陶弘護妻)の父。越中守。
雪舟と親交があったと伝えられており、彼が描いた兼堯像は国の重要文化財に指定されている。
【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用】
この『ウィキペディア(Wikipedia)』の内容だけでも益田氏や益田 兼堯(ますだ かねたか)には随分興味がそそられるものがありますね

【MAP:益田越中守兼堯公像のある場所(益田市七尾町)】
※マップトラバもしておきます。
2009年06月26日
竹藤九衛門(竹田番匠)をご存知ですか(益田市横田町)
益田市の偉人・有名人というカテゴリーにかなり久々ですが投稿です。
今回特集するのは竹藤九衛門…竹田番匠…こっ、こんな凄い匠が益田市の歴史上に存在していたとは
竹田番匠とは九州岡藩(大分県竹田市)の御用大工の棟梁の総称をさしていて、かつては、飛騨の匠と同様に優れた大工さん(名工)のことをいうそうです。
国道191号線を益田市から津和野方面に向かうと、益田市横田町に入ります。益田市市街地方面から(津和野町に向かって)来た場合、高津川にかかる橋(神田橋)の手前、国道の右側に「竹田番匠の墓」という案内の立札がたっています。
(ちょっとわかりにくいかも…)
この立札には益田市誌(昭和50年発刊)の引用が記述されていました。

竹田番匠の墓
※普請(ふしん)とは…建設のこと
そしてこれが、竹田番匠、竹藤九衛門様のお墓です。

竹田番匠、竹藤九衛門さんが手がけたという益田市向横田(むかいよこた)の丸山八幡宮については現在場所を調べています。なんでも、釘を一本も使わないという凄技で建てられたと言いますから…興味が湧きませんか?
【益田市横田町の竹田番匠に関する資料…ふるさとの歴史と伝説(著者 石川 寿保 氏)】
この益田市横田町の竹田番匠に関する資料は、私が調べた限りでは、益田市誌(昭和50年発刊)と、
「ふるさとの歴史と伝説」(著者:石川 寿保 氏) にて知ることができました。(竹田番匠 竹藤九衛門には弟子善右衛門という人がいたようです)
(この本は、益田市の図書館にあるよ
)
ちなみに、この「ふるさとの歴史と伝説」
書籍名 ふるさとの歴史と伝説
著者名 石川 寿保
昭和53年02月01日 1978
・高城地区に於ける人文地理の概要
・柿本人麿の妻と高津川
・和泉式部と鏡の釣井
・向横田城址
・近世以降
・部落の取り決め十二題
・渡場問題と同盟休校事件
・県道の誘致とその後の経過
・愛宕神社
・忠魂山系の経営
・向横田節について
・高城地区の旧家について
松本家の人々
1.竹田番匠の塚と弟子善右衛門
2.歌人松本郷三の作品
3.松本淳三の短歌とその生涯
石川氏、坂根氏、齊藤氏、柳井氏、宮崎氏、横田氏、岡本氏、湖氏、広瀬氏、その他の旧家
参考文献外
あとがき
石川さんの著書「ふるさとの歴史と伝説」ですが、益田市の横田町に関するいろいろ興味深い情報が満載で…この本も(最近復刻された「高津町誌」同様)わが益田市の歴史・記録上の宝となるものなんで是非とも復刻してもらいたいものじゃのう…
【ことば…普請(ふしん)についてもうちょっと詳しく…】
今回特集するのは竹藤九衛門…竹田番匠…こっ、こんな凄い匠が益田市の歴史上に存在していたとは

竹田番匠とは九州岡藩(大分県竹田市)の御用大工の棟梁の総称をさしていて、かつては、飛騨の匠と同様に優れた大工さん(名工)のことをいうそうです。
国道191号線を益田市から津和野方面に向かうと、益田市横田町に入ります。益田市市街地方面から(津和野町に向かって)来た場合、高津川にかかる橋(神田橋)の手前、国道の右側に「竹田番匠の墓」という案内の立札がたっています。
(ちょっとわかりにくいかも…)
この立札には益田市誌(昭和50年発刊)の引用が記述されていました。
竹田番匠の墓
ここに眠る竹田番匠は竹藤九衛門で、壇の医師、松本裕庵の知遇をうけ、向横田(むかいよこた)の丸山八幡宮を改築し、亨保元年壇の地で客死した。
竹田番匠とは九州岡藩(大分県竹田市)の御用大工の棟梁の総称で、飛騨の匠に比肩されるといわれる名工のことである。
(昭和五十年発刊益田市誌より)
神田の田植え囃子の歌詞にも次のようにあります。
「宮島様の御普請には、どなたが棟梁なされた。飛騨の匠に竹田の番匠、両人棟梁なされた」
※普請(ふしん)とは…建設のこと
そしてこれが、竹田番匠、竹藤九衛門様のお墓です。
竹田番匠、竹藤九衛門さんが手がけたという益田市向横田(むかいよこた)の丸山八幡宮については現在場所を調べています。なんでも、釘を一本も使わないという凄技で建てられたと言いますから…興味が湧きませんか?

【益田市横田町の竹田番匠に関する資料…ふるさとの歴史と伝説(著者 石川 寿保 氏)】
この益田市横田町の竹田番匠に関する資料は、私が調べた限りでは、益田市誌(昭和50年発刊)と、
「ふるさとの歴史と伝説」(著者:石川 寿保 氏) にて知ることができました。(竹田番匠 竹藤九衛門には弟子善右衛門という人がいたようです)
(この本は、益田市の図書館にあるよ
)ちなみに、この「ふるさとの歴史と伝説」
書籍名 ふるさとの歴史と伝説
著者名 石川 寿保
昭和53年02月01日 1978
・高城地区に於ける人文地理の概要
・柿本人麿の妻と高津川
・和泉式部と鏡の釣井
・向横田城址
・近世以降
・部落の取り決め十二題
・渡場問題と同盟休校事件
・県道の誘致とその後の経過
・愛宕神社
・忠魂山系の経営
・向横田節について
・高城地区の旧家について
松本家の人々
1.竹田番匠の塚と弟子善右衛門
2.歌人松本郷三の作品
3.松本淳三の短歌とその生涯
石川氏、坂根氏、齊藤氏、柳井氏、宮崎氏、横田氏、岡本氏、湖氏、広瀬氏、その他の旧家
参考文献外
あとがき
石川さんの著書「ふるさとの歴史と伝説」ですが、益田市の横田町に関するいろいろ興味深い情報が満載で…この本も(最近復刻された「高津町誌」同様)わが益田市の歴史・記録上の宝となるものなんで是非とも復刻してもらいたいものじゃのう…
【ことば…普請(ふしん)についてもうちょっと詳しく…】
普請(ふしん)とは、普く(あまねく)請う(こう)とも読み広く平等に奉仕(資金・労力・資金の提供)を願う事であり、社会基盤を地域住民で作り維持していく事を指し、現在では公共の社会基盤を受益する共同の人々または公共事業により建設(建築と土木を併せ建設という)および修繕、維持する事。
端的にいえば互助活動や相互扶助や自治としての建設(修繕、模様替も含まれる)の為の労力や資金の提供を求める事をさす。建設と言う言葉自体が明治時代に外来語を翻訳した時に出来た和製熟語でありそれ以前は普請と言った。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
2009年04月02日
益田兼堯像がない?益田市の雪舟の郷記念館って!
益田市の古(いにしえ)の偉人・有名人といえば柿本人麿さんと雪舟さん!だから、益田市民となれば民度の高い客人があれば一度は見てみたいし、見せたい、雪舟さんの「益田兼堯像」(ますだかねたかぞう)。これは雪舟の郷記念館で見れるはずなのですが・・・実は常設ではないのです!
参照:益田市立雪舟の記念館(島根県益田市乙吉町イ1149 ):>>平成20年度展示予定表
(21年度は不明)
雪舟さんの「益田兼堯像」(ますだかねたかぞう)を昨年に益田市民になった記念に、ぜひ見たくてわざわざ出かけたのに…入館料300円を払って、(益田市立雪舟の記念館にあるのは雪舟さんの作品の何と!コピー印刷物…ふつー美術館なんかになる精巧なレプリカですらありません(涙)
これはあまりにも変だと思って、
「益田兼堯像」(ますだかねたかぞう)はどこですか?と聞くと
「実は…ありません…」と申し訳なさそうに受付の若い女性が!
「えっ!なぜですか?」とたずねると、奥にいた年配の女性が煙たさそうに…私を見ました。(益田市立雪舟の記念館、この時点で入館者は私と某ベンチャーキャピタルの友人の2人…事務所にいた職員は3人…説明もなし!(笑))
何か言えない特別な理由があったのかもしれませんが…(次は許しませんぞ!)
そもそも…市民の熱い思いで開館という…益田市立雪舟の郷記念館は90年に開館し、今年で19年目を迎えました。開館のきっかけは、DAIGOのじい様・・・竹下さんのふるさと創生事業により、市が雪舟の描いた益田氏第15代の肖像画「益田兼堯(かねたか)像」(国の重要文化財)を購入…。
※だから雪舟さんの益田兼堯(かね・たか)像のない「雪舟の郷記念館」なんて…クリープを入れないコーヒーみたいなもんでしょう!?
なんで常設しないのでしょうか?
という経緯からして…益田兼堯像は?…「ありません…!
」って…いうよね~(笑)
わざわざ遠くから来たのに…粗雑な印刷コピーの雪舟様の作品!益田市民はともかく外来者を馬鹿にしとる!って思ったぞ!
でも、ほんとにオリジナル(本物)は・・・
参照:益田市立雪舟の記念館(島根県益田市乙吉町イ1149 ):>>平成20年度展示予定表
(21年度は不明)
雪舟さんの「益田兼堯像」(ますだかねたかぞう)を昨年に益田市民になった記念に、ぜひ見たくてわざわざ出かけたのに…入館料300円を払って、(益田市立雪舟の記念館にあるのは雪舟さんの作品の何と!コピー印刷物…ふつー美術館なんかになる精巧なレプリカですらありません(涙)
これはあまりにも変だと思って、
「益田兼堯像」(ますだかねたかぞう)はどこですか?と聞くと
「実は…ありません…」と申し訳なさそうに受付の若い女性が!
「えっ!なぜですか?」とたずねると、奥にいた年配の女性が煙たさそうに…私を見ました。(益田市立雪舟の記念館、この時点で入館者は私と某ベンチャーキャピタルの友人の2人…事務所にいた職員は3人…説明もなし!(笑))
何か言えない特別な理由があったのかもしれませんが…(次は許しませんぞ!)
そもそも…市民の熱い思いで開館という…益田市立雪舟の郷記念館は90年に開館し、今年で19年目を迎えました。開館のきっかけは、DAIGOのじい様・・・竹下さんのふるさと創生事業により、市が雪舟の描いた益田氏第15代の肖像画「益田兼堯(かねたか)像」(国の重要文化財)を購入…。
※だから雪舟さんの益田兼堯(かね・たか)像のない「雪舟の郷記念館」なんて…クリープを入れないコーヒーみたいなもんでしょう!?
なんで常設しないのでしょうか?
明治末期に飯塚文市・順天堂社長が雪舟遺跡保存のために立ち上げた「雪舟会」が母体となり、1918(大正7)年、当時の寺井文三郎・益田町長が創立委員長に就任し、益田市で「雪舟終焉地保存会」が結成されました。
という経緯からして…益田兼堯像は?…「ありません…!
」って…いうよね~(笑)わざわざ遠くから来たのに…粗雑な印刷コピーの雪舟様の作品!益田市民はともかく外来者を馬鹿にしとる!って思ったぞ!

でも、ほんとにオリジナル(本物)は・・・
2008年12月23日
復活。百人一首その理由とは
百人一首が人気復活ということです。ツンデレカルタも凄いらしいけど…家族巣ごもってカルタ…それもいいんじゃないでしょか?世の中暗いから「巣ごもり消費」なんて言わずに「家族団らん消費」といったら?ちょっとでもポジティブにサ…
そういえば益田の福原慎太郎市長さんは百人一首相当強いらしい…
Yahoo ニュース 12月22日
景気悪化で百人一首「復権」 京都ではゆかりの地も人気
百人一首…小学校のころ学校行事で百人一首大会があって冬休みは必死に覚えたのう…私はまじめじゃったから百人一首のレコード(当時はレコード!!)を母上に買うてもろうて…自宅で練習をした。レコードじゃったから…札を読まれる順番を先に覚えて…ちっとも実戦向きじゃなかった。(今はCDとかでランダム機能があるから実戦向き?)
さて本題、百人一首と益田市にゆかりのある人物といえば…
そう!
歌の聖柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
この歌は優先的に覚えた記憶が…
そして何より!
益田の福原慎太郎市長は小倉百人一首競技かるた(六段、平成8年全日本かるた選手権大会優勝
) という輝かしい実績をお持ちじゃ。
「当初、百人一首なんて…地味」と感じておった、しかし今や世のトレンドになるキーワードをいち早く極めておられる。
つまり先見性があるということじゃ(福原慎太郎市長も選んだ益田市民も…ポジティブに
)
そういえば益田の福原慎太郎市長さんは百人一首相当強いらしい…
Yahoo ニュース 12月22日
景気悪化で百人一首「復権」 京都ではゆかりの地も人気
かつての正月の定番「小倉百人一首」のカルタ遊びが見直されつつあるようだ。源氏物語千年紀で古典を再認識する機会にもなったこの1年、底の見えない不況を尻目に、カルタ製造の老舗では正月に向けて堅調に売り上げを伸ばしている。京都の観光地では百人一首をテーマにした施設や路地の歌碑も観光客に人気を呼んでおり、暗い世相をよそに、伝統文化が脚光を浴びている。(以下略)
百人一首…小学校のころ学校行事で百人一首大会があって冬休みは必死に覚えたのう…私はまじめじゃったから百人一首のレコード(当時はレコード!!)を母上に買うてもろうて…自宅で練習をした。レコードじゃったから…札を読まれる順番を先に覚えて…ちっとも実戦向きじゃなかった。(今はCDとかでランダム機能があるから実戦向き?)
さて本題、百人一首と益田市にゆかりのある人物といえば…
そう!
歌の聖柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
この歌は優先的に覚えた記憶が…

そして何より!
益田の福原慎太郎市長は小倉百人一首競技かるた(六段、平成8年全日本かるた選手権大会優勝
) という輝かしい実績をお持ちじゃ。「当初、百人一首なんて…地味」と感じておった、しかし今や世のトレンドになるキーワードをいち早く極めておられる。
つまり先見性があるということじゃ(福原慎太郎市長も選んだ益田市民も…ポジティブに
)2008年12月15日
「篤姫」最終回の宮崎あおいさん
宮崎あおいさんの49歳の篤姫。篤姫とあおいさん本人の心情がみごとにシンクロしていましたね。
「篤姫」最終回の視聴率28.7%。なんと第1回から最終第50回まですべて20%以上という数字。
Yahoo ニュース 12月15日
『篤姫』最終回視聴率28.7%、全50回20%超え
このブログでは何度もいっちゃいましたが、
最後にもう一度、
やはり我ら益田市出身の田渕久美子さんの脚本、素晴らしい
NHK大河ドラマのクオリティー…天地人、龍馬伝にも継承してもらいたいの~
あと「だんだん」も応援してます。
「篤姫」最終回の視聴率28.7%。なんと第1回から最終第50回まですべて20%以上という数字。
Yahoo ニュース 12月15日
『篤姫』最終回視聴率28.7%、全50回20%超え
NHK大河ドラマ『篤姫』が14日に最終回を迎え、その視聴率がビデオリサーチの調べで28.7%(関東地区・番組平均)だったことが15日(月)、わかった。これで第1回から最終第50回まですべて20%以上を記録したことになる。(以下略)
このブログでは何度もいっちゃいましたが、
最後にもう一度、
やはり我ら益田市出身の田渕久美子さんの脚本、素晴らしい
NHK大河ドラマのクオリティー…天地人、龍馬伝にも継承してもらいたいの~

あと「だんだん」も応援してます。
2008年12月14日
篤姫検定です
ついに今晩最終回の「篤姫」最終回に備えて篤姫検定でおさらいなんてどうですか?最終回が終わってからの思い出(?)と今後の「篤姫」談議用の薀蓄(うんちく)補給にもどうぞ
NHK大河ドラマ「篤姫」検定、 天璋院篤姫 本当の物知りになれる検定、 大河ドラマ「篤姫」検定(初級編) 、 篤姫クイズ、 大河ドラマ「篤姫」検定等…60本以上ありますよ!
Yahoo意識調査アンケート(実施期間:2008年10月6日~2008年10月16日)で、
NHK大河「篤姫」人気を支える一番の理由はどれだと思う?の結果。
1位:主役の宮崎あおいの演技 11801 票(30%)
2位:脚本のおもしろさ 7384 票(19%)
3位:篤姫(天璋院)の魅力 6958 票(18%)
(詳しくは>>http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/quiz/quizresults.php?poll_id=2751&wv=1&typeFlag=1 )
やはり「主役の宮崎あおいさんの演技」…至極同感じゃ!
そして、注目は2位、益田市出身の田渕久美子さんによる、「脚本」の面白さじゃ
先日のNHKでの「篤姫が教えてくれたこと…」では、具体的に脚本づくりのエピソードを公開。
キャラクター設定にその人物の境遇、年齢などいろいろなデータをもと(ネタ)にする脚本家というお仕事。
まさにプロファイリング能力じゃ。
しかもドラマとしての展開を考える。当然、視聴者を魅了していかなければならない。
田渕久美子先生も輝やいとったの~
NHK大河ドラマ「篤姫」検定、 天璋院篤姫 本当の物知りになれる検定、 大河ドラマ「篤姫」検定(初級編) 、 篤姫クイズ、 大河ドラマ「篤姫」検定等…60本以上ありますよ!

Yahoo意識調査アンケート(実施期間:2008年10月6日~2008年10月16日)で、
NHK大河「篤姫」人気を支える一番の理由はどれだと思う?の結果。
1位:主役の宮崎あおいの演技 11801 票(30%)
2位:脚本のおもしろさ 7384 票(19%)
3位:篤姫(天璋院)の魅力 6958 票(18%)
(詳しくは>>http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/quiz/quizresults.php?poll_id=2751&wv=1&typeFlag=1 )
やはり「主役の宮崎あおいさんの演技」…至極同感じゃ!

そして、注目は2位、益田市出身の田渕久美子さんによる、「脚本」の面白さじゃ

先日のNHKでの「篤姫が教えてくれたこと…」では、具体的に脚本づくりのエピソードを公開。
キャラクター設定にその人物の境遇、年齢などいろいろなデータをもと(ネタ)にする脚本家というお仕事。
まさにプロファイリング能力じゃ。

しかもドラマとしての展開を考える。当然、視聴者を魅了していかなければならない。
田渕久美子先生も輝やいとったの~
2008年12月08日
東京スカイツリーと益田
5日に文化功労者澄川喜一さんの顕彰祝賀会がありました。東京都墨田区に計画されている新東京タワー(東京スカイツリー)のデザイン監修も手がけている澄川喜一さん。近い将来、石見空港から羽田に向かう飛行機の窓から「あれ(東京スカイツリー)のデザイン監修は、うちの郷里の方がてがけたんだぞ!」なんて自慢できそう
Yahoo ニュース 12月8日
文化功労者:澄川喜一さん、グラントワで祝賀会 「しまねの文化力」で講演 /島根
また澄川喜一さんの講演「島根の文化力」では、
「市民の声でできたグラントワをどのように使いこなすかが、これからの文化力」と強調されたそうです。私も20年ぶりに郷里益田に帰り、初めてグラントワを見た時には…
でした…
グラントワを使い倒すぐらいの「文化力」そろそろ、じっくり考える時期かもしれません…たとえ地味でも

Yahoo ニュース 12月8日
文化功労者:澄川喜一さん、グラントワで祝賀会 「しまねの文化力」で講演 /島根
吉賀町出身の彫刻家で、益田市の県芸術文化センター「グラントワ」センター長、澄川喜一さん(77)=東京都在住=の文化功労者顕彰祝賀会が5日夜、グラントワで開かれた。
澄川さんは、日本的な感性に基づく、研ぎ澄まされた抽象彫刻を長年にわたって発表し続け、日本の美術界の発展に大きく貢献。グラントワセンター長をはじめ、地域の文化振興にも寄与しており、近年は東京都墨田区に計画されている新東京タワーのデザイン監修も手がけている。(以下略)
また澄川喜一さんの講演「島根の文化力」では、
「市民の声でできたグラントワをどのように使いこなすかが、これからの文化力」と強調されたそうです。私も20年ぶりに郷里益田に帰り、初めてグラントワを見た時には…
でした…グラントワを使い倒すぐらいの「文化力」そろそろ、じっくり考える時期かもしれません…たとえ地味でも



