2009年11月29日
扇原関門跡 浜田藩と津和野藩の標柱の発見(益田市誌より)
岸静江国治、扇原関門跡について調べてみると、この益田市周辺の近代史にもいろいろと興味深い出来事や人物の存在があることがわかりました
。
今日は、ちょっと軽い話題を…
以前、私が初めて扇原関門跡を訪ねた際、幕末の古戦場の雰囲気を感じた!的にとりあげた
【関連投稿】
>>扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)
↑このページの下の方に標柱の画像と、それを見たときの(私の)感想があります。
(今から思へば笑へます
)
では!
地政学的に見て面白い位置に存在する益田市の歴史的資料ともいえる「標」2つに関する発見!です。
(かなりトリビアな話題です
)
「浜田(濱田)藩の領界を示す標柱」と「津和野藩の領界を示す標柱」

扇原関門跡(益田市多田町)にて撮影
※2つの標柱の画像を編集(連結)しています。実際は街道跡をはさんでほぼ向かい合っています。
実は、この2本の標柱、それぞれ(一時的に)益田市の民家(たぶんお屋敷)の庭にしばらくおかれていたようです。


※ちなみに津和野藩の標柱の文字はかなりの達筆だと思います(カッコイイ!
感涙)
最初に扇原関門跡でこの2つの標柱をみたとき、
「このような歴史的に貴重なものが、よくもまぁ、ありのまま残っていたもんだ!」と思いましたが、良く考えてみればわかるのですが
…もし、ここ益田市多田町の扇原関門跡で、昔からずっとこの「浜田(濱田)藩の領界を示す標柱」と「津和野藩の領界を示す標柱」が残存し続けている方が歴史的に変なわけです。
(政権交代のすえ、廃藩置県となり浜田藩も津和野藩もなくなったわけですからネ!)
ちなみに今回浜田藩について調べることがあったのですが、その際、上野国(群馬県)生まれの岸静江国治がそもそもここ石見の地(現在の益田市の)扇原関門に赴任することになった経緯…松平(まつだいら)〔越智(おち)〕家についての資料がありましたので引用しておきます。
松平(まつだいら)〔越智(おち)〕家 1836年~1866年
美作国(みまさかのくに)は現在の岡山県美作市にあたるそうです。美作国宮本村っていえば…「宮本武蔵」の出身地とも言われている場所ですね(あくまで伝承ですが)。尚、鶴田は「たずた」と読むそうです。
ところで、島根県の浜田市って最近の駅前商店街とかは、益田市より寂しい雰囲気なんですが、昔は凄かったんですね!いろいろと
。今日は、ちょっと軽い話題を…
以前、私が初めて扇原関門跡を訪ねた際、幕末の古戦場の雰囲気を感じた!的にとりあげた
【関連投稿】
>>扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)
↑このページの下の方に標柱の画像と、それを見たときの(私の)感想があります。
(今から思へば笑へます
)では!
地政学的に見て面白い位置に存在する益田市の歴史的資料ともいえる「標」2つに関する発見!です。
(かなりトリビアな話題です
)「浜田(濱田)藩の領界を示す標柱」と「津和野藩の領界を示す標柱」
扇原関門跡(益田市多田町)にて撮影
※2つの標柱の画像を編集(連結)しています。実際は街道跡をはさんでほぼ向かい合っています。
実は、この2本の標柱、それぞれ(一時的に)益田市の民家(たぶんお屋敷)の庭にしばらくおかれていたようです。
※ちなみに津和野藩の標柱の文字はかなりの達筆だと思います(カッコイイ!
感涙)【画像出処:益田市誌 下巻 P209】
益田市誌(上・下巻)
昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市
益田市誌(上・下巻)
昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市
最初に扇原関門跡でこの2つの標柱をみたとき、
「このような歴史的に貴重なものが、よくもまぁ、ありのまま残っていたもんだ!」と思いましたが、良く考えてみればわかるのですが
…もし、ここ益田市多田町の扇原関門跡で、昔からずっとこの「浜田(濱田)藩の領界を示す標柱」と「津和野藩の領界を示す標柱」が残存し続けている方が歴史的に変なわけです。(政権交代のすえ、廃藩置県となり浜田藩も津和野藩もなくなったわけですからネ!)
ちなみに今回浜田藩について調べることがあったのですが、その際、上野国(群馬県)生まれの岸静江国治がそもそもここ石見の地(現在の益田市の)扇原関門に赴任することになった経緯…松平(まつだいら)〔越智(おち)〕家についての資料がありましたので引用しておきます。
松平(まつだいら)〔越智(おち)〕家 1836年~1866年
上野国館林藩より第6代将軍・徳川家宣の弟・越智清武を祖とする松平(越智)斉厚が6万1000石で入封した。第15代将軍・慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った第4代藩主・武聰は、慶応2年(1866年)、第二次長州征伐のとき、浜田口を担当し、長州藩側の大村益次郎が指揮する軍に悉く撃破された。浜田の街に長州軍が入ったときには、武聰は戦わずして浜田城を放棄して松江城に逃れた。その後、武聰は美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えた。この際に、浜田の街は焼き払われ浜田城も同時に灰燼に帰した。その後、浜田は長州藩の占領下となり廃藩となる。
明治2年(1869年)、版籍奉還により隣接して同じく長州藩の占領下にあった天領・石見銀山領とともに大森県となり、さらに明治4年(1871年)、県庁が浜田へ移転され浜田県となった後、島根県に編入された。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)太字強調は益田市太郎による
美作国(みまさかのくに)は現在の岡山県美作市にあたるそうです。美作国宮本村っていえば…「宮本武蔵」の出身地とも言われている場所ですね(あくまで伝承ですが)。尚、鶴田は「たずた」と読むそうです。
ところで、島根県の浜田市って最近の駅前商店街とかは、益田市より寂しい雰囲気なんですが、昔は凄かったんですね!いろいろと
2009年11月27日
扇原関門と岸静江国治の最後 吉田軍人会による記述
先日お約束しました「昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑の碑文…岸静江国治の戦死の姿態(諸説あるうちの一つとして)に関する記述が掲載されています。」
を引用しておきます。
「徳川幕府ノ末期、天下挙ッテ騒然タルノ時、岸静江源国治、浜田藩ノ命ニ依リ、我ガ扇原関門ヲ預リ往ス。斯テ長州再征ノ役起ルヤ、時ハ慶応弐年六月十六日、幕軍ノ西下ニテ先チ、長軍ノ一隊、東進スベク来襲シテ開門ヲ請フ。然ルニ靜江、只管命ノ重キヲ奉ジ、頑トシテ之ヲ肯ゼズ。而モ敵ハ、奇兵ノ大勢ナリ。爰ニ於テ、既ニ意ヲ決シタル靜江ハ、先ズ猟銃ヲ携ヘ、加勢ニ集エル付近ノ農民ニハ、旨ヲ諭シ退散ヲ命ジ置キ、挺身武装ヲ固メ、以テ防戦ニ之レ力ム。サレド奈何セン、剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ衆寡適セズ、切歯シテ悲愴ナル、最後ヲ遂グ。乃チ飛弾満身、既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。為ニ敵兵ヲシテ、大ニ之ヲ訝ラシメ、暫シ進軍ヲ躊躇セシム。其層壮烈人咸感嘆セザルナシ。亨年三十一歳。 昭和八年四月二十五日、靖国神社ニ合祀。」
益田市誌(下巻)P213~214より引用
昭和五十三年六月三十日 発行 編纂者 益田市誌編纂委員会 発行者 益田市
「既ニ意ヲ決シタル靜江ハ、先ズ猟銃ヲ携ヘ、加勢ニ集エル付近ノ農民ニハ、旨ヲ諭シ退散ヲ命ジ置キ、挺身武装ヲ固メ、以テ防戦ニ之レ力ム。」
何度読んでも壮絶なシーンです…

「命を投げ出す覚悟」!
まさに公に務める意識の「塊」だと思いませんか!?
剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ…岸静江国治は「十字長槍」の達人だったんですね!十字長槍といえばバカボンドの胤舜(いんしゅん)の宝蔵院流十字槍を彷彿させますが
(胤舜のは「十文字鎌槍」なんでちょっと違うか…どんな槍だったのでしょうか?)
既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。…そうです!この話が、かつて、益田市で「花神」で盛り上がっていた頃に、学校の先生から聞いた話でした。(岸静江国治の最後は他にも色々な説があるそうです)
また益田市誌(下巻)P214には「関址に建てられた静江の碑」として、
扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)で掲載した「岸静江 戦死之地」の碑の画像(モノクロ)がありました。
これは先日現地で撮ってきたもの…

この碑の文字を書いた方の名前があることに気が付きました
…
陸軍中将 野島忠孝 書とあります。
軍人データベース 『サクラタロウ DB (Purunus DB)』によると、
「岸静江国治」に関する特集記事。
>>岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)
>>扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)
>>岸静江国治外伝 矢風奥録(益田市某所)
>>発見!扇原関門跡 明治時代のモノクロ写真
を引用しておきます。
「徳川幕府ノ末期、天下挙ッテ騒然タルノ時、岸静江源国治、浜田藩ノ命ニ依リ、我ガ扇原関門ヲ預リ往ス。斯テ長州再征ノ役起ルヤ、時ハ慶応弐年六月十六日、幕軍ノ西下ニテ先チ、長軍ノ一隊、東進スベク来襲シテ開門ヲ請フ。然ルニ靜江、只管命ノ重キヲ奉ジ、頑トシテ之ヲ肯ゼズ。而モ敵ハ、奇兵ノ大勢ナリ。爰ニ於テ、既ニ意ヲ決シタル靜江ハ、先ズ猟銃ヲ携ヘ、加勢ニ集エル付近ノ農民ニハ、旨ヲ諭シ退散ヲ命ジ置キ、挺身武装ヲ固メ、以テ防戦ニ之レ力ム。サレド奈何セン、剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ衆寡適セズ、切歯シテ悲愴ナル、最後ヲ遂グ。乃チ飛弾満身、既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。為ニ敵兵ヲシテ、大ニ之ヲ訝ラシメ、暫シ進軍ヲ躊躇セシム。其層壮烈人咸感嘆セザルナシ。亨年三十一歳。 昭和八年四月二十五日、靖国神社ニ合祀。」
益田市誌(下巻)P213~214より引用
昭和五十三年六月三十日 発行 編纂者 益田市誌編纂委員会 発行者 益田市
「既ニ意ヲ決シタル靜江ハ、先ズ猟銃ヲ携ヘ、加勢ニ集エル付近ノ農民ニハ、旨ヲ諭シ退散ヲ命ジ置キ、挺身武装ヲ固メ、以テ防戦ニ之レ力ム。」
何度読んでも壮絶なシーンです…
「命を投げ出す覚悟」!
まさに公に務める意識の「塊」だと思いませんか!?
剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ…岸静江国治は「十字長槍」の達人だったんですね!十字長槍といえばバカボンドの胤舜(いんしゅん)の宝蔵院流十字槍を彷彿させますが
(胤舜のは「十文字鎌槍」なんでちょっと違うか…どんな槍だったのでしょうか?)
既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。…そうです!この話が、かつて、益田市で「花神」で盛り上がっていた頃に、学校の先生から聞いた話でした。(岸静江国治の最後は他にも色々な説があるそうです)
また益田市誌(下巻)P214には「関址に建てられた静江の碑」として、
扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)で掲載した「岸静江 戦死之地」の碑の画像(モノクロ)がありました。
これは先日現地で撮ってきたもの…
この碑の文字を書いた方の名前があることに気が付きました
…陸軍中将 野島忠孝 書とあります。
軍人データベース 『サクラタロウ DB (Purunus DB)』によると、
野島 忠孝(のじま ちゅうこう)野島忠孝陸軍中将とはどんな方なのか?調べてみたのですがあまり詳しくはわかりませんでした。ただ、野島忠孝陸軍中将の「像」は島根県の浜田市にあると思われます。(詳しい場所は不明)
官位 : 陸軍中将
主な補職 : 歩兵第10旅団長
兵科 : 歩兵
学校 :士官生徒8 陸大8
出身地 : 島根県
生歿年 : 元治1年9月6日 - 昭和19年3月13日
「岸静江国治」に関する特集記事。
>>岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)
>>扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)
>>岸静江国治外伝 矢風奥録(益田市某所)
>>発見!扇原関門跡 明治時代のモノクロ写真
2009年11月25日
発見!扇原関門跡 明治時代のモノクロ写真
今月の初め頃、「益田市の偉人有名人」で特集していました岸静江国治(きし しずえ くにはる)。
あれで終わり?と思った方もいるかもしれませんが、益田市太郎、地味に、じゃなかった地道に情報収集していました。
2009年11月に突如として特集開始した益田市の歴史上の人物「岸静江国治」に関する特集記事は以下の3つ。
>>岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)
>>扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)
>>岸静江国治外伝 矢風奥録(益田市某所)
まずは益田市の現在の扇原関門跡の様子

(多田方面から撮影)木が繁って全体的に薄暗い感じです。
そして、これが明治時代に撮影された扇原関門跡(扇原関址)の画像です。

おそらく左ヶ山方向からの撮影かと思います…
(この画像の出処は明治43年5月15日の石見実業時報だそうです)
随分、雰囲気が違いますネ。大きな松の木があったようです。この(明治時代の)画像なら「ここに関門(関所)があった」ということもわかるような気がしませんか!?
(画像左下の白くみえるものが岸静江国治の墓だそうです。これは現在ここに設置されている「岸静江 戦死之地」の石碑とは違うものですネ。)
今回の「発見!明治時代の扇原関門跡の画像」での貴重な情報のリソース(情報源)は益田市誌
(益田市誌は益田市の歴史・民俗・地理学等を網羅しているという意味で益田市の至宝と(私が勝手に)思っとります。)
益田市誌(上・下巻)
昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市
その下巻「政治篇」(P205~)「第一章 明治維新」
第一節 長州征伐と石見地方
扇原関門と岸静江(下巻P213~P214)で発見しました。
ここでは他に貴重な情報として
①昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑の碑文…岸静江国治の戦死の姿態(諸説あるうちの一つとして)に関する記述が掲載されています。(内容については、いつか引用、投稿しますね)
②(また、私が初めて知ったことなんですが…)
益田戦争における戦死者に関する記述(「征長の役の戦死者」同上P214)もありました。
その中に特筆すべきことがありました
!
長州藩の戦死者の中に乃木三蔵という方がおられたそうです。この方はあの乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将の従兄弟にあたるということなんです。
そして、乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将が第三軍司令官として旅順攻撃を指揮した翌々年の明治三十九年には(乃木大将)御自ら益田市の妙義寺山内の従兄弟の三蔵氏の墓を詣でた…つまり、かつて、この益田市の地に乃木希典大将が
…というわけです。
なんだか、また益田市の歴史で凄いことを知ってしまったので皆さんにもシェアしときマスダわけです
(…で、ふと思ったのじゃが、長州軍がここ扇原関門で岸静江国治と戦い、制圧したにもかかわらず一度横田に戻ったのはここでの乃木三蔵という方の戦死とも関係があるのではなかろうか…なんせこの戦いの数年後、明治4年(1871年) には陸軍少佐になる乃木希典の従兄弟であるから…)
【上記仮説に関する訂正却下】
後日、乃木三蔵が戦死したのは1886年6月17日ということがわかりました。扇原関門跡での戦い(最初の武力衝突=岸静江国治の戦死は1886年6月16日)はその1日前となります。乃木三蔵の戦死は翌日17日益田市の萬福寺(益田市東町25-33)での戦闘によるものということでした。(記:2009年12月4日)
【MAP:扇原関門跡(益田市多田町)…位置はおおよそです】
多田温泉わきの農道を登って行くと、岸静江国治の墓があり、道をはさんだ向い側に「扇原関門跡への案内板」があります)
マップトラバも大体同じ位置にしておきます。
あれで終わり?と思った方もいるかもしれませんが、益田市太郎、地味に、じゃなかった地道に情報収集していました。
2009年11月に突如として特集開始した益田市の歴史上の人物「岸静江国治」に関する特集記事は以下の3つ。
>>岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)
>>扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)
>>岸静江国治外伝 矢風奥録(益田市某所)
まずは益田市の現在の扇原関門跡の様子
(多田方面から撮影)木が繁って全体的に薄暗い感じです。
そして、これが明治時代に撮影された扇原関門跡(扇原関址)の画像です。
おそらく左ヶ山方向からの撮影かと思います…
(この画像の出処は明治43年5月15日の石見実業時報だそうです)
随分、雰囲気が違いますネ。大きな松の木があったようです。この(明治時代の)画像なら「ここに関門(関所)があった」ということもわかるような気がしませんか!?

(画像左下の白くみえるものが岸静江国治の墓だそうです。これは現在ここに設置されている「岸静江 戦死之地」の石碑とは違うものですネ。)
今回の「発見!明治時代の扇原関門跡の画像」での貴重な情報のリソース(情報源)は益田市誌
(益田市誌は益田市の歴史・民俗・地理学等を網羅しているという意味で益田市の至宝と(私が勝手に)思っとります。)
益田市誌(上・下巻)
昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市
その下巻「政治篇」(P205~)「第一章 明治維新」
第一節 長州征伐と石見地方
扇原関門と岸静江(下巻P213~P214)で発見しました。
ここでは他に貴重な情報として
①昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑の碑文…岸静江国治の戦死の姿態(諸説あるうちの一つとして)に関する記述が掲載されています。(内容については、いつか引用、投稿しますね)
②(また、私が初めて知ったことなんですが…)
益田戦争における戦死者に関する記述(「征長の役の戦死者」同上P214)もありました。
その中に特筆すべきことがありました
!長州藩の戦死者の中に乃木三蔵という方がおられたそうです。この方はあの乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将の従兄弟にあたるということなんです。
そして、乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将が第三軍司令官として旅順攻撃を指揮した翌々年の明治三十九年には(乃木大将)御自ら益田市の妙義寺山内の従兄弟の三蔵氏の墓を詣でた…つまり、かつて、この益田市の地に乃木希典大将が
…というわけです。なんだか、また益田市の歴史で凄いことを知ってしまったので皆さんにもシェアしときマスダわけです

(…で、ふと思ったのじゃが、
【上記仮説に関する訂正却下】
後日、乃木三蔵が戦死したのは1886年6月17日ということがわかりました。扇原関門跡での戦い(最初の武力衝突=岸静江国治の戦死は1886年6月16日)はその1日前となります。乃木三蔵の戦死は翌日17日益田市の萬福寺(益田市東町25-33)での戦闘によるものということでした。(記:2009年12月4日)
【MAP:扇原関門跡(益田市多田町)…位置はおおよそです】
マップトラバも大体同じ位置にしておきます。
2009年11月04日
岸静江国治外伝 矢風奥録(益田市某所)
さて、今日は私、益田市太郎にとって、個人的に楽しませて?いただきたき投稿です
最近の一連の投稿、実は、あるお方のコメントによるものでした。
その方とは…益田市出身で今は(どうやら)京にお住まいのブロガー「なまず」さん!
なまずさんのブログ(トップページ)はこちら>>安住の地を求めて・・・なまずの寝床探し
超スゲ~~方っす!というのも、ご先祖様(ご祖父様)が岸静江から譲り受けた「鉄瓶」をお持ちだとか…
岸静江、所縁の地について取材投稿しますので…是非「鉄瓶」見せてください!とコメントしたら…なんと
画像投稿してくだすった!(チョ~感謝!)
>>岸静江から譲り受けた鉄瓶の画像【安住の地を求めて・・・なまずの寝床探し】より
それがこの鉄瓶じゃ!(なまず様より事前に画像引用の手続きおよび許可のもと掲載させていただいております。)

これは!益田市の民間歴史家にとっては感動
級のお宝ではなかろうか!
ちゅうわけで、久々に嬉しくなったんで、
ワシ、益田市太郎、友人、南方君と江戸川啓志をよんで、皆で酒を酌み交わしながらチャネリングをしてみた
一八六六年六月某日、石州(現 島根県 益田市 某所)。
物頭勤方取次の岸静江国治は部下二名を従へ、萬福寺より自らが守を務める扇原関門(現 益田市多田町)の途上。
季節は梅雨、墨の滲むがごとき雲層。連日の雨で濁った川(多田川)の流れ…馬上にて、「ふぁぁぁ…」思わずの欠伸。一筋の涙が静江の頬を垂れた。今の静江には、こんな鉛の如く濁った陳腐、退屈な風景…それらに感ずる地味なる気分を、生かさるる実感と解釈し、妙な嬉しさを感じていた…「感謝」
その日の夕刻、扇原関門近くで静江は一人の少年と話していた…

少年は静江に対し、
「関守様(岸静江のこと)、えらい立派な鉄瓶をお持ちじゃのう!?」
「ほう、おんしはこれ(鉄瓶)がわかるか?(笑)」
「別に、よう知らんのじゃが、エエもんに見えるけぇ…」
「そうか…よし、じゃ、これをおんしにやっぺ!」
「なっなっ、なんでじゃ!?」
「なんでもクソもねーべな…わしらすぐ忙しゅうなんぺし(笑)ましてやもう茶ぁ飲む気(分)じゃねえべな!」
「…」
「なに、タダでやるとは言わん。いくらここが多田つーてもよ(笑)」
…「酒と肴を手配できねえべか!?部下の連中に振舞おうにも最近は暇がねえ」
「酒は何とかなるんじゃけど…多分…「肴」ちゅうてものう…鮎ぐらいしかありゃぁせんのじゃが…今時分」
「上等、上等!(笑)…よし!じゃあ、これ(鉄瓶)は、おんしに先に渡しておく、さっ、直(すぐ)に手配すっぺ!」
「今から…!?」
「おう!すぐに(笑)!『唯今がその時、その時が唯今なり』そんでココは多田だっぺ(爆!)」
続きを読む

最近の一連の投稿、実は、あるお方のコメントによるものでした。
その方とは…益田市出身で今は(どうやら)京にお住まいのブロガー「なまず」さん!
なまずさんのブログ(トップページ)はこちら>>安住の地を求めて・・・なまずの寝床探し
超スゲ~~方っす!というのも、ご先祖様(ご祖父様)が岸静江から譲り受けた「鉄瓶」をお持ちだとか…
岸静江、所縁の地について取材投稿しますので…是非「鉄瓶」見せてください!とコメントしたら…なんと
画像投稿してくだすった!(チョ~感謝!)>>岸静江から譲り受けた鉄瓶の画像【安住の地を求めて・・・なまずの寝床探し】より
それがこの鉄瓶じゃ!(なまず様より事前に画像引用の手続きおよび許可のもと掲載させていただいております。)
これは!益田市の民間歴史家にとっては感動
級のお宝ではなかろうか!ちゅうわけで、久々に嬉しくなったんで、
ワシ、益田市太郎、友人、南方君と江戸川啓志をよんで、皆で酒を酌み交わしながらチャネリングをしてみた

<<以下チャネリング!?以下チャネリング!?以下チャネリング!?>>
一八六六年六月某日、石州(現 島根県 益田市 某所)。
物頭勤方取次の岸静江国治は部下二名を従へ、萬福寺より自らが守を務める扇原関門(現 益田市多田町)の途上。
季節は梅雨、墨の滲むがごとき雲層。連日の雨で濁った川(多田川)の流れ…馬上にて、「ふぁぁぁ…」思わずの欠伸。一筋の涙が静江の頬を垂れた。今の静江には、こんな鉛の如く濁った陳腐、退屈な風景…それらに感ずる地味なる気分を、生かさるる実感と解釈し、妙な嬉しさを感じていた…「感謝」
その日の夕刻、扇原関門近くで静江は一人の少年と話していた…
少年は静江に対し、
「関守様(岸静江のこと)、えらい立派な鉄瓶をお持ちじゃのう!?」
「ほう、おんしはこれ(鉄瓶)がわかるか?(笑)」
「別に、よう知らんのじゃが、エエもんに見えるけぇ…」
「そうか…よし、じゃ、これをおんしにやっぺ!」
「なっなっ、なんでじゃ!?」
「なんでもクソもねーべな…わしらすぐ忙しゅうなんぺし(笑)ましてやもう茶ぁ飲む気(分)じゃねえべな!」
「…」
「なに、タダでやるとは言わん。いくらここが多田つーてもよ(笑)」
…「酒と肴を手配できねえべか!?部下の連中に振舞おうにも最近は暇がねえ」
「酒は何とかなるんじゃけど…多分…「肴」ちゅうてものう…鮎ぐらいしかありゃぁせんのじゃが…今時分」
「上等、上等!(笑)…よし!じゃあ、これ(鉄瓶)は、おんしに先に渡しておく、さっ、直(すぐ)に手配すっぺ!」
「今から…!?」
「おう!すぐに(笑)!『唯今がその時、その時が唯今なり』そんでココは多田だっぺ(爆!)」
続きを読む
2009年11月03日
扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)
前回>>岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)のつづきです。
今回は益田市指定文化財 扇原関門跡(おうぎはらかんもん あと)、
場所は「岸静江国治の墓」(益田市指定文化財)から歩いて10分弱位。薄暗い林、ずっと上り坂(途中から未舗装で足元やや注意!)…登りつめると「扇原関門跡」があります。
おお、何やら記念碑?お墓?のような構造物が…見えてきた!(というか、逆光で最初は「人影」かと
)

到着するとそれは石碑…「岸静江 戦死之地(岸静江が戦死した場所)」と

さっそくここ「扇原関門跡」に関する案内看板を発見!
おおっ!この看板は新しい!

※以下、コンテンツ!
益田市指定文化財
扇原関門跡
元治元年(一八六四)江戸幕府と長州藩が緊迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたと言われる。
慶応二年(一八六六)六月十六日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約一千五百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守 岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに戦闘が開始された。俗に「石州口の戦い(せきしゅうぐちの戦い)」といわれ、大島口(周防大島)・芸州口(安芸)・小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第二次長州戦争の口火となった。
圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌十七日には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。
圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ…
仁王立ちのまま絶命…
現場責任者の「意地」を感じるのう…
それに比べ(最近、益田市のここら辺りの歴史について(得意の)調査をしているのじゃが…)
やはり幕府軍(浜田藩等)の上の連中はあっさり

逃げたそうじゃ…上司は選べんしんのう…中間管理職ちゅうもんは、いつの世も辛いもんじゃ
(じゃが、何度も言うがのう、そういうワシだって…本当のところどうするもんやら…岸静江みちょうな潔い行動をとれるじゃろうか…自信は…無いのう
否、たぶん…
じゃろうて)
扇原関門跡が「跡」と呼ばれる所以(証拠…痕跡)!?

この石碑「岸静江 戦士之地」の後ろあたりから、上ってきた道沿いにこのような石積み、石垣?が…堅牢とはいえないまでも、何らかの防御陣(建物)があったような痕跡があります。
【※岸静江国治の魂をビリビリ感じたいなら!】
前回も最後に書きましたが、恥ずかしながら、私、益田市太郎は、長州軍と幕府軍がバトッた場所を「岸静江国治の墓」の地点だと思っておりました
。これは私の単純な知識不足(「仁和寺のある法師」状態
)だったわけです。
(でも当時(約20年くらい前)は「岸静江国治の墓」の場所も。昼間でも薄暗かった)
今回、扇原関門跡のことを知り、実際に見ることができたのですが…やはり、ここ「扇原関門跡」の雰囲気は独特…でも正直「こんな地味で狭い場所」しかも、益田市…日本国内の地で、本当になまなましいバトル
があったものじゃろうか…?」と若干不思議な思いもしておりました。
ですが!これを見て「やっぱ、ここでバトル
があったんじゃのう
」と感じました。

「從是北濱田領」…こっかっら北は浜田藩の領地

「00南津和野領」→こっから南は津和野藩の領地(多分)
益田市の近代史ツワー(をもし企画するなら)必須のスポットだと思いました
岸静江国治の魂をビリビリ感じます(少人数…できれば一人で来ればなおさら…)
【MAP:扇原関門跡(益田市多田町)】
※おおよその位置です(すみません)より正確な位置が確認でき次第修正アップします
Yahoo地図(もちろんgoogleマップにも)には「道」は存在しませんが「岸静江国治の墓」から道をはさんで南へ登る小道があります途中まで舗装されていますが、新しい広域農道の下をくぐる感じで「扇原関門跡」へとつながっています。広域農道をくぐってからは未舗装…で突如、雰囲気バリバリに!(そこらへんは次々回あたりに詳しく)
今回は益田市指定文化財 扇原関門跡(おうぎはらかんもん あと)、
場所は「岸静江国治の墓」(益田市指定文化財)から歩いて10分弱位。薄暗い林、ずっと上り坂(途中から未舗装で足元やや注意!)…登りつめると「扇原関門跡」があります。
おお、何やら記念碑?お墓?のような構造物が…見えてきた!(というか、逆光で最初は「人影」かと
)到着するとそれは石碑…「岸静江 戦死之地(岸静江が戦死した場所)」と
さっそくここ「扇原関門跡」に関する案内看板を発見!

おおっ!この看板は新しい!
※以下、コンテンツ!
益田市指定文化財
扇原関門跡
元治元年(一八六四)江戸幕府と長州藩が緊迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたと言われる。
慶応二年(一八六六)六月十六日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約一千五百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守 岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに戦闘が開始された。俗に「石州口の戦い(せきしゅうぐちの戦い)」といわれ、大島口(周防大島)・芸州口(安芸)・小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第二次長州戦争の口火となった。
圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌十七日には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。
益田市
益田市教育委員会
益田市教育委員会
圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ…
仁王立ちのまま絶命…

現場責任者の「意地」を感じるのう…

それに比べ(最近、益田市のここら辺りの歴史について(得意の)調査をしているのじゃが…)
やはり幕府軍(浜田藩等)の上の連中はあっさり


逃げたそうじゃ…上司は選べんしんのう…中間管理職ちゅうもんは、いつの世も辛いもんじゃ
(じゃが、何度も言うがのう、そういうワシだって…本当のところどうするもんやら…岸静江みちょうな潔い行動をとれるじゃろうか…自信は…無いのう
否、たぶん…
じゃろうて)扇原関門跡が「跡」と呼ばれる所以(証拠…痕跡)!?
この石碑「岸静江 戦士之地」の後ろあたりから、上ってきた道沿いにこのような石積み、石垣?が…堅牢とはいえないまでも、何らかの防御陣(建物)があったような痕跡があります。
【※岸静江国治の魂をビリビリ感じたいなら!】
前回も最後に書きましたが、恥ずかしながら、私、益田市太郎は、長州軍と幕府軍がバトッた場所を「岸静江国治の墓」の地点だと思っておりました
。これは私の単純な知識不足(「仁和寺のある法師」状態
)だったわけです。(でも当時(約20年くらい前)は「岸静江国治の墓」の場所も。昼間でも薄暗かった)
今回、扇原関門跡のことを知り、実際に見ることができたのですが…やはり、ここ「扇原関門跡」の雰囲気は独特…でも正直「こんな地味で狭い場所」しかも、益田市…日本国内の地で、本当になまなましいバトル
があったものじゃろうか…?」と若干不思議な思いもしておりました。ですが!これを見て「やっぱ、ここでバトル
があったんじゃのう
」と感じました。益田市の近代史ツワー(をもし企画するなら)必須のスポットだと思いました
岸静江国治の魂をビリビリ感じます(少人数…できれば一人で来ればなおさら…)
【MAP:扇原関門跡(益田市多田町)】
※おおよその位置です(すみません)より正確な位置が確認でき次第修正アップします

Yahoo地図(もちろんgoogleマップにも)には「道」は存在しませんが「岸静江国治の墓」から道をはさんで南へ登る小道があります途中まで舗装されていますが、新しい広域農道の下をくぐる感じで「扇原関門跡」へとつながっています。広域農道をくぐってからは未舗装…で突如、雰囲気バリバリに!(そこらへんは次々回あたりに詳しく)
2009年11月02日
岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)
岸静江国治をご存知ですか!?(益田市 多田町)…ということで久々に益田市の話題!
しかも、益田市の偉人・有名人シリーズとなると
>>竹藤九衛門(竹田番匠)をご存知ですか(益田市横田町)2009年06月26日以来です。
で、今回取り上げた「岸静江国治(きし しずえ くにはる)」
かのNHKの大河ドラマで島根県の益田市がからむといえば、
最近ではなんといっても「篤姫」
(絡み方は脚本家、田渕久美子先生が益田市出身ということですけど…
)
実は!実際にNHKの大河ドラマのストーリーの中で益田市が舞台になったこと(場所)があるんです!
そのドラマの名前は「花神(かしん)」(原作:「花神 」司馬遼太郎 先生著)です!
で、益田市に関連する、その舞台(場所)は扇原関門(おうぎはらかんもん)俗にいう「石州口の戦い」(現 益田市の多田町)
(といっても私、益田市太郎はここらあたりの日本史は、まるっきり無知蒙昧!当のドラマ「花神」の第何話でとりあげられたのか?もしかして、とりあげられていないかも…
)
でも、当時益田市には「NHK大河ドラマ「花神」の舞台…」って感じの看板が(国道191号線、益田市多田町の入口あたり)あったのは確か
…ということで、
今回は、益田市指定文化財という「岸静江国治の墓」をご紹介します。
(結構長いです(笑))
まずは、「岸静江国治の墓」案内看板
(この看板もカナリいい感じです♪)

益田市指定文化財(昭和46年6月21日)
岸静江国治の墓
慶応二年(一八六六年)六月十六日朝、横田を出発した大村益次郎(旧名 村田蔵六)の指揮する長州軍は九ツ時頃(十二時)扇原関門に迫り開門を要求した。隊長 岸静江国治はこれを拒絶し、僅かな部下と急募の農民と共に関門の守りについたのであった、圧倒的な兵力を誇る長州軍のため、関門は重大な危機に直面したので、国治はまず部下と農民を退去せしめ、唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け、三十一歳を一期として壮烈な戦死をとげたのであった。
昭和八年 岸静江国治は靖国神社に合祀せられた。
※国治はまず部下と農民を退去せしめ唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け…
なんとも凄い人が我ら益田市におったもんじゃ!
(感動)
どう考えても勝ち目のないバトルで、
「いらぬ犠牲者を出したくない」とする長としての人格!
まさに「現在の長たるモノ達に 爪の垢でも…」
といいたいところじゃが
ワシとて、本音のところ自信がないぞ!
で、この岸静江国治…石見人にも凄い人物がおったものだ!と一瞬感動したのだけど…
実は!上野国(こうずけのくに)出身…つまり現在の(ほぼ)群馬県出身ということ(残念!)
でも、ワシが付き合ってる会社様のうち2社が群馬県!これも何かの縁じゃのう…
現在の「岸静江国治の墓」の様子

約二十年前に初めてここに来た時は、周辺に木が繁り、昼間でも暗かったような気が…(益田市の元町の実家から「歩き」で来た記憶が…)
今は、こんな立派な道路ができています。

(車で行けてラクチンでした)
【MAP:「岸静江国治の墓」(益田市多田町)】
次回は、「岸静江国治」が戦死した「扇原関門跡」です。
※実は、私、益田市太郎これまで、「岸静江国治の墓」の場所=「扇原関門跡」と思っていました。ですから初めてこの益田市多田町の「岸静江国治の墓」を訪れたときに一生懸命「銃弾」を探しました(笑)
しかも、益田市の偉人・有名人シリーズとなると
>>竹藤九衛門(竹田番匠)をご存知ですか(益田市横田町)2009年06月26日以来です。
で、今回取り上げた「岸静江国治(きし しずえ くにはる)」
かのNHKの大河ドラマで島根県の益田市がからむといえば、
最近ではなんといっても「篤姫」
(絡み方は脚本家、田渕久美子先生が益田市出身ということですけど…
)実は!実際にNHKの大河ドラマのストーリーの中で益田市が舞台になったこと(場所)があるんです!
そのドラマの名前は「花神(かしん)」(原作:「花神 」司馬遼太郎 先生著)です!
『花神』(かしん)は、NHKで1977年1月2日~12月25日に放送された15作目の大河ドラマ。周防の村医者から倒幕司令官に、明治新政府では兵部大輔にまで登りつめた日本近代軍制の創始者・大村益次郎を中心に、松下村塾の吉田松蔭や奇兵隊の高杉晋作といった、維新回天の原動力となった若者たちを豪快に描いた青春群像劇。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
で、益田市に関連する、その舞台(場所)は扇原関門(おうぎはらかんもん)俗にいう「石州口の戦い」(現 益田市の多田町)
(といっても私、益田市太郎はここらあたりの日本史は、まるっきり無知蒙昧!当のドラマ「花神」の第何話でとりあげられたのか?もしかして、とりあげられていないかも…
)でも、当時益田市には「NHK大河ドラマ「花神」の舞台…」って感じの看板が(国道191号線、益田市多田町の入口あたり)あったのは確か

…ということで、
今回は、益田市指定文化財という「岸静江国治の墓」をご紹介します。
(結構長いです(笑))
まずは、「岸静江国治の墓」案内看板
(この看板もカナリいい感じです♪)
益田市指定文化財(昭和46年6月21日)
岸静江国治の墓
慶応二年(一八六六年)六月十六日朝、横田を出発した大村益次郎(旧名 村田蔵六)の指揮する長州軍は九ツ時頃(十二時)扇原関門に迫り開門を要求した。隊長 岸静江国治はこれを拒絶し、僅かな部下と急募の農民と共に関門の守りについたのであった、圧倒的な兵力を誇る長州軍のため、関門は重大な危機に直面したので、国治はまず部下と農民を退去せしめ、唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け、三十一歳を一期として壮烈な戦死をとげたのであった。
昭和八年 岸静江国治は靖国神社に合祀せられた。
昭和五十二年四月
益田市
益田市教育委員会
益田市
益田市教育委員会
※国治はまず部下と農民を退去せしめ唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け…

なんとも凄い人が我ら益田市におったもんじゃ!
(感動)どう考えても勝ち目のないバトルで、
「いらぬ犠牲者を出したくない」とする長としての人格!
まさに「現在の長たるモノ達に 爪の垢でも…」
といいたいところじゃが
ワシとて、本音のところ自信がないぞ!
で、この岸静江国治…石見人にも凄い人物がおったものだ!と一瞬感動したのだけど…
実は!上野国(こうずけのくに)出身…つまり現在の(ほぼ)群馬県出身ということ(残念!)
でも、ワシが付き合ってる会社様のうち2社が群馬県!これも何かの縁じゃのう…
現在の「岸静江国治の墓」の様子
約二十年前に初めてここに来た時は、周辺に木が繁り、昼間でも暗かったような気が…(益田市の元町の実家から「歩き」で来た記憶が…)
今は、こんな立派な道路ができています。
(車で行けてラクチンでした)
【MAP:「岸静江国治の墓」(益田市多田町)】
次回は、「岸静江国治」が戦死した「扇原関門跡」です。
※実は、私、益田市太郎これまで、「岸静江国治の墓」の場所=「扇原関門跡」と思っていました。ですから初めてこの益田市多田町の「岸静江国治の墓」を訪れたときに一生懸命「銃弾」を探しました(笑)



